平野先生の女川とのつながりは、大激論から始まったそうですね。

2011年から災害科学研究所所属として石巻の復興を手伝っていた関係で、声がかかりました。2012年12月の土木学会の研究発表会中の昼休みに、町長と復興推進課の課長、担当の方、小野寺康さんとがお越しになり、議論を始めたのがきっかけです。

当初は、駅前のレンガみちを歩行者専用道にすることに反対でした。車社会の東北で、車で寄りつけない商店街なんて意味がない…と思っていて。大激論の末、議論には負けたのですが、自分も女川の復興まちづくりをお手伝いすることになりました。今の女川駅前の様子を見れば、負けてよかったと思っています。

とにかく、復興を急がなければいけなかった。スピードを落とさずに復興事業を進めていきながら、一方で住まいや交通についての議論も続けていたんです。最初の中心街の計画は、国道から奥まったところに計画されていたんですが、鷲神浜と女川浜をつなぐために、地域医療センターの裏側を通って駅前までの「生活軸を通す」ことで中心街を表に出しました。この提案で、後にデザイン会議の委員になる人たちが町長や町の信用を勝ち得た、という経緯です。

 

そして次の年の夏には、初のデザイン会議が開催されました。

女川町復興計画 初期プラン

2013年の1月から5月の間にもさまざま激論・提案しながら、夏にデザイン会議が発足。翌年まで、月に一回のペースで開催しました。小野寺さんと宇野さんに対して、公正中立な立場の学識経験者としてのバランス役に徹しました。それぞれの検討部会で技術的な細部を詰めて、町長も参加されるデザイン会議の場で決めていく。技術的に実施できるか微妙な場合でもその場で決めなければいけず、苦労しました。

予算の制約もありました。早々に復興庁に申請した分、他の被災市町村より有利だった側面はあるとは思いますが。

 

女川の都市計画は、どんなところに注目しましたか?

交通を中心部に集中させることです。女川浜と鷲神浜という2つの市街地を一つに集約しました。女川浜中心にできたのは、女川のみなさんの力です。どちらの浜を中心にするかという難しい議論は最初から決着済みだったんです。FRK(復興連絡協議会)の皆さんの見識が大きいですね。

「今のこのままの仕組みではダメだ」という人が半分以上いないと、町は変わらない。

町の皆さんが震災前から町の課題を自覚されていたので、震災復興を機に変わることができた。女川は、生き延びる勉強を始めていたからなんですね。

どの自治体にとっても、住民のための「まちづくり」が大切。愛着や誇りを高めていく方にシフトしていきました。小さな事業を集めたり、組み合わせることで、相乗効果が出ます。でも、それだけだと持続可能性が低いので、ちゃんと稼いでまた別のプロジェクトに再投資することでサステナブルにする、ということが必要になってきています。

 

女川の成功のきっかけ「還暦以上は口出すな」は有名です。

低成長時代の中で、どうまちづくりをしていくか。カッコいいですよね。

日本のIT化が遅れたのは、高度成長期の成功体験を体験した世代のやり方に縛られていたから。ところが、日本の縮図とは違うことが女川では行われていました。若い世代が、成長時代の慣習に囚われずに進めることができました。

どういう町でありたいか、あるべきかを町に残ると決めた民間事業者のみなさんが描いていきました。女川は、被災後の人口減少率が一番高かった。出ていく人は出ていってしまった中、厳しいとわかっていながら再投資を決めた事業者たちの覚悟がすごいですよね。民間ベースの力が強いのは女川の良いところ。

その結果、石巻とくらべると、デザインの話に集中できました。「これからの時代はこうあるべき」というそもそも論が全くいらなかった。想いを空間に変換させるのがプロの仕事です。やりやすかったです。

 

振り返ってみて、もっとこうしたかった、と思うところはありますか?

女川の歴史をもう少し継承したかったですね。参画した時点では、もう区画整理事業が進んでいました。急ぐ復興の中では難しかったのですが。事後的に町長と話したことがあります。すると、町長のお考えは、女川中学校の生徒の言葉が刻まれた横断幕の通り「新しい女川に生まれ変わればいい」とのことでした。歴史の積み重ねが町の魅力を長期的に作ればいいと。

女川シンボル空間 初期イメージ

しかしながら、プロとしては、古い道筋や町割りをもっと継承した区画整理をしたいという気持ちはありましたね。これも、結果的に実現しませんでしたが、桜並木など被災前の街を伝えるものは残したいと思っていました。

2021年12月の女川中心市街地

 

記憶に残っているデザイン会議のエピソードはありますか?

とにかく、小野寺さんも宇野さんも手戻りは気にしなかったことですね。当初、レンガみちは国道398号の下をくぐる立体交差の計画だったんです。この立体交差のデザインを何度も何度も引き直して、小野寺さんが仕上げました。バリアフリー対応はどうするのだ、という町民の方からの質問がきっかけです。散々議論して、ようやく決めたバリアフリーのスロープだったのですが、警察からOKが出たら、あっさりと苦労して出した成果を捨て平面交差で再度作り直しました。

どんなに積み重ねていたとしても、スパッと捨てる。できあがる町がどうなるか、町にとって一番良いと思うことを常に選んできました。

デザイン会議の場で、施工業者や関係各所に即時確認しながら決断していきました。そして徐々に即断即決スピード会議から、部会での議論を重視する会議へとシフトした。終盤は急がない内容をじっくりと決めていった感じです。

 

これからのまちづくりに期待することはありますか?

ハードの専門家としての仕事は一段落。土地にそれぞれ所有者と管理者がいる中でシームレスなトータルデザインができあがりました。ここからのポイントになるのが、どう管理体制を作るか。維持や補修の際に、勝手な判断でやってしまうとエリア全体の価値が下がるので。

「敷地に価値なし、エリアに価値あり」

という言葉があるように、どうやってエリア全体の価値を高める情報発信やテナントをどう呼んでくるか。一店舗だけが有名になるよりも、女川エリアが有名にならないと。ひとつの町よりも、エリアや地域に行こうという気になれるほうが良いですね。ソフト部分の情報発信とクオリティの高め方をどう維持していくかが課題だと思います。

 

日本中の地方自治体が抱えている課題でもありますね。

まちづくりは、潮目が大事。震災などのドラスティックな変化があるときは、変わることができるんですね。これからも人口減少が少しずつ進む中で、いつ変革をするのかが難しいのです。変えなくていいと思う人が多いときは、体力がまだ残っている。ただ、変えなきゃと思った時は体力がないかもしれない。体力があるうちに舵を切るか、先手を打ってリーダーシップを取れるか。真剣にまちを良くしていくリーダーを選んでいかなければならない時代になりました。

全国的に生き残り合戦です。思い切ったことをできたところが、生き残れる。たとえば、まちづくりの参考事例として人が視察に訪れるようなエリアになること。公共的なショッピングセンターを一元化してマネジメントできれば先進的ですよね。

 

トータルデザインからトータルマネジメントへ、ということですね。

そうなれば、理想的です。国土交通省は、都市再生推進法人という制度を創設していますが、この法人がやってよい業務の中に公共施設の管理と整備が入っています。女川のような小規模な町のエリアマネジメントに使われたら、先進的な取り組みになると思います。レンガが壊れたときなど、一括で補修するなど合理的、効率的にできる。エリアの価値を落とさないマネジメントが可能になるんです。

漁業に関しても、震災後に単価が高いものもできるようになってきましたし、跡継ぎがいないところは法人化するような動きも拡がるかもしれない。エリアマネジメントの考え方を浜へ導入できれば、ノルウェーのような管理型になれますね。

れんがみちから見る女川の初日の出

 

女川こぼればなし。
研究室に入ると、出迎えてくれたのは見慣れた「父ちゃんキャラクター」のフィギュア。撮影中の平野先生の立ち姿を見ながら、なるほど…と納得。難しくなりがちなトピックでも気さくにお話いただき、外見だけじゃなく内面も似てるかも、と思っているのは一人だけじゃないはず。

2022.03.20 Text : YUKA ANNEN  Photo : KEISUKE HIRAI