奇跡の出会いの連続が生んだ、まちづくり。

本棚を見ると、その人となりが分かると言う。宇野さんの事務所兼ご自宅のリビングとテラスには、本がたくさん詰まった本棚がずらり。ガーデニング、建築、都市計画、サッカー、と多岐にわたるテーマの本で埋まっている。どんなお話になるだろうか。初夏の風が流れてくるテラスへと繋がるリビング。開放した窓からは、川のせせらぎも聞こえてくる。心地よい日だ。

現在、女川町復興まちづくりデザイン会議委員として、新しい女川の都市計画に関わっている宇野さん。女川に入ったのは2012年6月のこと。もうすぐ丸四年になる。「女川もそうなんですが、いつも『開かれたまち』という考え方を大事にしながら仕事をしています。僕がこれまでに培ってきたスキルを活かしてもらうため、少しずつ信頼関係を築いていきました。それが功を奏したのか分かりませんが、まちづくりにとって必要なことや見直しの方向性を、町長や関係者の方々が理解してくれました」と話す。オープンマインドだ、と表現する女川町のスタンスが、提案から実行への流れをスムーズにしたそうだ。

女川のまちづくりは、奇跡の出会いの連続の上に成り立っている、と宇野さんは言う。その一つは、当時の女川町復興推進課係長と出会ったことだった。復興計画づくりを陣頭指揮していた彼は、かつて女川町立病院建設に携わったゼネコンの現場監督出身で、仕事が一段落しても女川の魅力のとりこになってそのまま住み着いた変わり種だった。ハード面を見極める目があったことから、どんどん進められていく復興計画のマスタープランに対して懸念を持った。果たして、このまま進めて良いのかどうか。そんな時、仙台で復興計画づくりの留意点を考えるセミナーに参加し、セミナー後に国土交通省のパネリストに女川の現状を説明。アドバイスが欲しい、と訴えた。そこで浮上したのが、宇野さんの名前だった。

実際に動きがあったのは、2012 年6月ごろ。「今にして思えば、分岐点でした。大臣認可をもらって、工事を一刻も早く始める。一日も早く仮設住宅から出てもらえるようにすることが、再優先。計画の良し悪しを考えるような雰囲気ではありませんでした」と当時を振り返る。とりあえずということで、宮ケ崎高台のモデルプランを描いたのが始まりだった。当時の担当者が、町長に修正をかけたいと訴え、マスタープランを見直すことになった。そして、さあ始動というとき、背中を押してくれていた担当者が急逝する。当然、作業はストップ。再開したのは、半年後だった。

自分と同じくらい手を動かすのが早い人に初めて出会った、と宇野さんが感じたのが、女川駅前エリアのデザインに関わった小野寺さんだ。 「出会った時、只者ではないなという実感がお互いにありましたね。女川の空間イメージを描き、一緒に駅前をスケッチしていった」。そこにコンター(等高線)を載せていったのが宇野さん。町長も参加し、皆でリアルな空間にしていった。何度もデザイン会議を重ね、町の皆さんと小野寺さんと二人三脚で、生まれ変わる女川の画を丁寧に描き上げていった。

初期の設計を見直すことが決まった時、宇野さんには災害公営住宅の側にあるアスレチックパークを周辺の住民が散歩できる場所にしたい、との想いがあった。この高台から、まっすぐ海が見えるようにデザインをしたい。当時、災害公営住宅の設計を担当していたのが宇野さんの30年来の友人という奇跡。まっすぐ見えるようにするために、公営住宅のデザインの調整の協力をしてもらうことができた。この出会いのおかげで、女川の自然の魅力を大切に思う宇野さんの思いが、またひとつ形になった。

「今やらないでいつやるんだ」が進めるまちづくり。

女川は活かせる素材が多い、と宇野さん。少し手を加えるだけで、元の大きな地形構造を改変することなく、「女川らしさ」を実現できるのではと考えている。「ニュータウンの中で今なおキラキラ輝いている町は、元の地形を新しい町の中に上手に取り込んでいるところが多いですね」。昔のニュータウンのように効率優先で作ってしまうと、自然地形は縁辺部のみになってしまう。緑は残し方次第で付加価値になるが、上手に活用できていない町も多いと言う。

宇野さんが、全て手書きの設計図を出してくれた。丁寧に色が塗ってある。大きな紙に描かれた設計図を二枚出してくれた。5000分の1と1000分の1。デザイン会議で高台造成の議論をする時にはいつも壁に貼っているという。女川駅やレンガみちプロムナード、シーパルピア女川、新しくできる住宅地や移転した神社などが確認できる。宇野さんは笑う。「いまどきパソコンでCADを使えないので、手で書くんです。現況の地形、そこに新たに立ち現れる風景を想像しながら、よしこれだと納得のいくプランを固めていくんですよ」」。何十枚と書き直し、その度に紙を切ったり貼ったりした痕が、重ねた会議の回数を物語っている。

宇野さんが地図の上に線を引き始めた。女川湾を望む高台の住宅地から女川湾に向かって、何本も軸線が伸びていく。全ての軸線が、一点で交差する。女川は、海を囲んでいる地形になっている。「全住戸から海が見えるのは理想なんですが、」と宇野さん。「これらの軸があることで、それぞれの高台に自慢できる場所ができるんです。夕暮れ時に、海を見ながら話をする時間を持つ。厳然と在る海と向き合う」そんなライフスタイルを宇野さんは想像する。海との縁を切った生活は、あり得ない。

宇野さんは続けた。「海があることが当たり前過ぎて街に活かしきれていない。それは、もったいない。身近に気づきの空間を忍ばせると、なにかいいことがあるんじゃないかなぁと。豪華な空間じゃなくても、僕はいいと思うんです。意識化させるようなものがあればいい」。神社が移転せざるを得なくなったとき、周りの建物の高さも制限することで、海が見える場所になった。コンセプトはあるものを活かす、それだけなんですと宇野さんは括った。

ニュータウン開発の今と昔。

大学院で建築を勉強した宇野さん。建築だけでは町は良くならないと思い始め、違う方向を模索し始めた。新しい家族を支えるために就職した事務所で働き詰めになり、毎日終電に乗って帰るような日々だった。日本がまだ高度経済成長を続けていたの頃、ニュータウン開発のプラニングに関わった。1990年頃から、多摩ニュータウンなどのプロジェクトメンバーに。「女川のように、何もないところから町を作るということをやっていました。ですから、今やっていることは、昔取った杵柄、久しぶりに自分のスキルを活かせるぞと言いますか」と笑う宇野さん。当時は、都市計画を生業としている会社は国内でもそれほど多くなく、たまたまアルバイトしていた会社が多摩ニュータウンなどを手がけていた事務所だった。

ニュータウンの多くはコロニーみたいになってしまう危険性をはらんでいます、と宇野さんは言う。「丘陵地に忽然と現れるような形になってしまう。地域との関係性を絶ってしまうんですね、効率性を優先するために」。山を削り、中央部に平らなエリアを作る。
本来ならば、地域の一部として存在するニュータウン開発が期待できたかもしれない。当時は、町の価値を高めるニュータウンのあり方を総合的に見る人がいなかったそうだ。

ハウスメーカーの大半が、敷地は四角でなければいけない、家は直方体、碁盤の目に敷くという考えのもとに建てているのが現状だそうだ。それを打ち破るために、宇野さんがあえてチャレンジしたプロジェクトがある。15年ほど前にうまくいかなかった幻のプロジェクトのリベンジ。「みんな執念深い」と話す三名のチームで再チャレンジし、見事に最優秀賞。スケッチと写真を見せてもらった。サッカーボールのワンピースのような形の土地を組み合わせた住宅地。

建物は四角形、土地が五角形。不規則な向きで建っていることにより、開放感がある。視線が抜けていき、必ず隙間ができるので遠くまで見える。それぞれの土地は決して広くはないが、コモングリーン、と呼ばれる共有エリアを囲むようにできているため、リゾートのような雰囲気になっている。日本ではあまり見ないタイプだ。なぜこのような住宅地が増えないのか、という率直な疑問が浮かんだ。機械的にまちをデザインする人が多い、将来起こりうるアクティビティや生活シーンを想像する力が弱いから、と言い切った宇野さんの言葉に納得すると同時に、変わることを期待したい気持ちが湧いた。

一気に作りきらない公園。

町が一方的に維持管理する従来の形とは違う公園を作ろうと、プロジェクトを進めている。新しくできる清水公園だ。全て揃った公園を作っても、結局使われないことが多い。ならば、使いながら作っていく公園にしようと宇野さんは考えた。利用者と共に公園の活用方法を考え、共に維持管理するスタイルだ。「一気に作りきらない公園を作ろうと。やりたい人が、やりたいことを実現できるようにしたいんです。あれはダメこれはダメという公園は作りません」と宇野さん。女川は、山野草の宝庫だ。無理やり移植するのではなく、公園の一ヶ所で育て一部販売する場所の設置や、拾ったどんぐりを育て卒業のときに植樹する小学生のためのプログラムなど、様々なアイディアが浮かんでいる。

「地形そのものの魅力を見せるデザインが重要です」と力強く話す。入居が始まった高台エリアもある。日常の営みを、少しずつ取り戻している女川。その美しい地形を活かしたまちづくりは、今日も続いていく。

宇野っち、のサッカーコーチ論。

宇野さんは、町のチームのサッカーコーチの顔を持つ。小学三年生の選手たちから宇野コーチ、ではなく、宇野ちゃん、宇野っちと呼ばれているそうだ。コーチを始めたきっかけは、20年ほど前にプレーしていた息子さん。息子さんが卒業した後も、宇野さんはコーチを続けた。「サッカーのいい指導者の条件って、いかに育つ環境を提供するかだと思うんです。教える必要は無いんです」と宇野さん。もっと上手くなりたいと思うような楽しい環境を作り出し、あとは子どもたちに任せる。ピッチに出た時に自分で考え、決め、行動できる選手を育てる。宇野流コーチングは、過干渉にならないこと。現在、多摩市では敵なし状態。小学生からも、親御さんたちからも絶大な信頼を受けている。

そんな宇野さんは、女川をサッカーチームに例えた。「みんなでミスを補う。誰一人文句を言わず、臨機応変に動き回り、目標に向かって役割分担をする」。まさに今の女川の姿であり、まちの強みだ。生まれ変わるために、一歩ずつ前へ進んでいく。完成するその日まで、足を止めることなく今日も明日も動いていく。

女川こぼればなし

野球少年だったら宇野さんは、こっそりサッカーを自主練。子どもに負けたくないという一心で連続リフティングを練習し、126回を達成したことも。執念深く、負けず嫌いな宇野さんが妥協せず作り上げたまちづくりが形になっていく。完成が待ち遠しい。