バイラオナガワとは、フラメンコの道。

「うちの先生、すごいんです。」
彼女の踊りに魅せられた一人の生徒の一言から、フラメンコと女川が繋がった。マミーニャ、と呼ばれている久田麻実さんはプロのフラメンコ・ダンサー。今年7月17日で4年目を迎えようとしている食とフラメンコの祭典「BAILA☆ONAGAWA(バイラ・オナガワ)」の創設メンバーだ。2013年の夏以来、毎年欠かさず、時には年に数回女川を訪れている。マミーニャさんの呼びかけで、全国各地からフラメンコの踊り子と演者たちが、女川に集結する。

「バイラのおかげで気づくことができたんです。おこがましいですが、このためにフラメンコをやるべきだったんだな、と。これこそ、私が進む道なんだと納得することができたのです」。たとえ女川の地を訪れるのが年に一度だとしても、心の中にはいつも女川がある。あなたにとってのバイラ・オナガワとは、と聞かれたマミーニャさん。わたしのフラメンコの道、無条件で行くべき道です、と返ってきた。覚悟の声が、ホールに響いた。

フラメンコと女川が出会った夜。

とあるフラメンコのイベントで出会い、一緒に踊った女性がいた。その後、マミーニャさんのレッスンに入門。この時、2013年。うちの先生すごいんです、と言い放ったのが、入門したてのこの生徒。ちょうど、女川でエルファロというトレーラーハウスの宿泊施設が完成した年だった。新しくできたこの施設を盛り上げる目玉となるイベントを企画することなり、建築デザインに関わっていた彼女に、フラメンコと女川を繋ぐアイディアが閃いたのだ。

打診からわずか2ヶ月後の2013年7月、第一回目のバイラ・オナガワを開催。マミーニャさんの声かけで、仲間が集まり協力してくれた。一年目は無事に終わり、女川で出会った人びとと再会を誓い合った。二年目は、いつも共に踊っている仲間も一緒に来てくれた。イベントとして、新たな第一歩を踏み出した感覚があった、とマミーニャさん。

三年目、2015年のこと。イベントの最中に、停電してステージが真っ暗に。
「演奏も踊りも続け、お客さんたちがそれに応えるようにググッと寄ってきてくれた。どんどん前のめりになって、応援してくれたことが忘れられない」。
光が落ちた瞬間、盛り上げようと一斉に駆け寄ってくる女川の人たち、ライトがパッとついたときの歓声、期せずして高まった一体感。そのシーンは、今でも目にくっきりと焼き付いている。

フラメンコとの出会い。

いつの間にかフラメンコの世界に入り、なんとなくここまで来ていたと話すマミーニャさん。フラメンコとの出会いは、世界中を飛び回る旅人人生を送っていたころに見舞われた二度の交通事故がキッカケだった。「運動しなさいとリハビリの先生に言われ、なんとなく雑誌を眺めていた時、生まれ月のラッキーお稽古が【フラメンコ】だったんです。そうかフラメンコかぁと頭の片隅においている時、最寄りの駅でフラメンコ教室の開講を知り参加したのが始まりでした」と話す。

皆が初めてならいいかなと思い、始めたフラメンコ。が、最初はあっさり三ヶ月で辞めてしまう。フラメンコに挑戦したことで一度は気が済んで旅へ。半年後、フラメンコ教室で出会った友人から、また一緒にやろう、とハガキが届いた。再度教室に申込み、また三ヶ月後、辞めて再び旅へ。「三回目に戻った時に、いつしか発表会に出ることになっていたんですよ。発表会を終えた時、フラメンコを本気でやってみようかなと思えたんです」。30歳で始めたフラメンコ。三年後の発表会を機にどんどんのめり込み、夢中になり始めた時は五年の月日が経っていた。

体育大学卒のマミーニャさん。「ちょっぴり人より優れた運動能力があったので、踊りのセンスはゼロだったけれども、技術的な習得が早く、フラメンコを教えてくださった大先生のおかげで、幾つかの大きな舞台に立たせてもらいました」。経験を重ね続け、ふと気づくと生活はフラメンコ一色になっていた。今後の生活を考え、定職に就こうと思い、再び立ち止まる。

ずっと教える仕事をしたかったマミーニャさんは、大学の先生に相談。しかしながら、教員採用試験は35歳まで。ここで勧められたのが、さらに上の教職免許を取得することができる大学院への入学だった。そして、二年間大学院へ通い、その間フラメンコ生活は一時休止し、公民館でフラメンコ講習会の講師を引き受ける程度だった。その時に船橋で受け持ったクラスは、現在も続いている。

大学院修了を前にして、学問としてのフラメンコを題材にしてはどうかと舞踊学の先生に勧められたのを機に、決めた修士論文のテーマは「フラメンコについての一考察〜日本におけるフラメンコの歴史と現状について」。まずは東京のフラメンコの事情から調べ始め、インタビューやアンケートを行った。どのようにフラメンコが日本へ伝わり、今後の展開について調べあげた。「間口が狭い、という印象を受けました」とマミーニャさん。「日本では芸術として盛り上がってきたフラメンコですが、本来は大衆的な民族舞踊。いわば、盆踊りのような地元の踊りなんです」。もっと気軽にフラメンコができたら、裾野が拡がるのではないか。きっと、あの衣装を来て踊ってみたい、一度はやってみたかったという人はいるはず。

ならば、それを私がやったらいいのかなと思い始めた頃、少しずつ風が吹いてきた、とマミーニャさんは振り返る。一緒にフラメンコを習っていた仲間と練習をしたりお祭りに出たり、一時休止していたフラメンコを復活させた。「在学中に教える機会も増えていきました。フラメンコを教えるならもっとフラメンコを学ばなければ、と思うようになりました」。大学院を修了するも、当初の計画だった教員試験は受けず、スペインへ。短期修行の旅へ出た。以来、毎年二週間スペインへ。向かうのは、スペイン南部のヘレス。シェリー酒とフラメンコ発祥の町として知られている。2月に開催されるフラメンコフェスティバルの二週間、世界中からフラメンコに関わる人が集う。ワークショップやステージを鑑賞し、技術を取得し、スペインという地でフラメンコを肌身で感じる。日本に留まっていては、決して触れることのない学びの時間。マミーニャさんが、このスタイルで修行の旅を始めてから、今年でちょうど10年だ。

傷ついた東北へ、ハレの日を。

震災後、一番に訪れたのは岩手県・久慈市。小学校や幼稚園、老人ホームや道の駅などで、二泊三日で復興応援フラメンコと題して踊った。もっと身近に感じてもらいたいという気持ちと、少しでも身体を動かしてもらおうと仲間たちと作ったのが【フラメンコ体操】。様々なバージョンがあり、幼稚園生でもできる簡単なものから、座りながらできる高齢者向けのものまで、場と対象に合わせて変わっていくというものだ。
福島県・南相馬には、2012年から4回訪れている。今年2016年は町のお祭りに参加。【南相馬コルポラシオン】と題し、都内のスペイン料理の有名店とコラボ。ボランティアと踊り子の総勢30名ほどで、パエリアとフラメンコのイベントを仮設住宅で行ってきた。スペインのハレの日を届けたい、という一心で。

それぞれの町とそれぞれの関わり方がある、とマミーニャさん。「フラメンコには応援するチカラがあると思っています。情熱だけではなく、悲しみも、喜びも、苦しみもあるフラメンコ。だからこそ、包み込み、チカラを与え奮起させるような力があるのではないかと。私にできることは踊ること。ほんの少しでも元気になったり、また明日もがんばろうかなと思えれば」。マミーニャさんの笑顔が輝いた。

バイラ・オナガワ。踊れ、女川。

訪れる度に変わっていく女川町。それに合わせ、ステージも変わり、仲間も様変わりしていく。同じ場所で、後ろの景色や客席が変わっていく。夜の路上ライブや、週末のコンサートなども始まっている。町と一緒に発展し、進化していくバイラ・オナガワ。マミーニャさんにとって、特別な存在だ。

「多くの人が、被災した町のために何かをしたい、助けたい、協力したいと思っています。でも、ご縁が無いとなかなか行けないのが現実です。女川はもう復興して立ち上がっているという人もいます。日々頑張っている人がいれば、悲しんでいる人もいる。ちょっと一息つけて、自分たちが楽しむことができるお祭りとして、これからもバイラを続けていくことができたら。」気持ちの上での繋がりを提供するお祭り。これが、マミーニャさんにとってのバイラ・オナガワなのだ。

バイラを通じて、フラメンコの仲間が増えた、と話すマミーニャさん。一度女川を訪れたメンバーは、次も来てくれる。今年はいつですかと問い合わせがある。関わった女川という町で踊り、観客に楽しんでもらい、全国から集まった踊り子も演者も、存分に楽しむ。2015年にはギタリストと女川のバーのマスターとのコラボで「女川ルンバ」という歌と踊りが誕生した。こっちゃきてまじゃろうよ、の歌詞と共に呼びかけ合い、中も外も無い仲間との連帯感を感じさせるマミーニャステージ定番の演目となった。共に集った踊り子たちが全国に散らばったあとも、各地で「女川ルンバ」を歌い踊るようにもなった。フラメンコを通じ、女川、というキーワードが全国へ羽ばたいていく。

「新しいレンガみちが出来てから初のバイラです。初めて来る人もいると思います。バイラというものを知ってもらう良い機会。たまたま女川を訪れた人が、フラメンコと出会う。さらに、たくさんの人と出会えるのではないかという期待でいっぱいです」。今年も参加型のステージにし、演者と観客の垣根をマミーニャ流に取っ払っていく。流しのようにギター集団と踊り子が、カラフルに町の飲み屋さんを回遊する。女川が、煌めき色づく夜となりそうだ。

現在は、岩手県・北上で月一回のレッスンを開催している。いつかは女川でフラメンコを学んでくれる人がいたらいいな、と話す。やりたいという人のために女川で開催したワークショップから、いずれバイラの踊り子として参加するなんてことがあるかもしれない。

マミーニャ流フラメンコとは。

マミーニャさんのライブは、いつも強烈な熱気に包まれる。かぶりつきで、みながステージの熱気に巻き込まれ、共に踊り、笑い合い、一つになる。これこそがマミーニャさんが目指す、大衆フラメンコのかたちだ。「私のフラメンコは、参加一体型。ここにいる人全員やってください、という気持ち。自分も演奏する人も見る側も、一緒に楽しむという喜びがやっと分かってきた気がします」。

フラメンコをもっと身近な存在にしたい。大きいコンサートホールでは、演者と観客に分かれてしまう。パルマ、と呼ばれる手拍子は楽器の一部とみなされるため、観客は、叩くのを控えるのがフラメンコ本来のマナー。でも、と続けたマミーニャさん。楽しくて気持ちが高揚したときの手拍子は、私は受け入れたい、と。距離が近い、食やお酒との共有があり、大空の下深呼吸しながら踊るフラメンコが大好きなマミーニャさん。これからも、そんな理想のステージのスタイルを全国各地で続けていく。

女川こぼればなし

きぼうのかね商店街を歩いていると、一人の少年が近づいてきた。「今年もやるの?」バイラ事務局のメンバーだと気づいたらしい。顔を覚えていてくれたのだ。やるよ!と答えると、やったー!とぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだ。ああこの子一人のためだけだとしても続けてきてよかったと心から感じさせてくれたあの少年は、今年も来てくれるだろうか。