「生きる」からうまれた「なみだはあふれるままに」。

女川で生まれ育った神田瑞季さん。長期休みの際には、在学中の東北芸術工科大学のある山形から女川に戻ってくるという。今年2016年3月11日に女川町で行われた慰霊祭では、遺族代表としてスピーチをした。ラジオから流れて来た言葉にハッとした。「天国の人たちも私たちの幸せを強く望んでいると思う。たくさん、たくさん、幸せになりましょう」。なかなか言える言葉では無い、と感じたのと同時に、この女性にぜひ会ってみたい、と思ったのだった。瑞季さんは、二年前にも慰霊祭でスピーチをする話をもらったが、断っていたそうだ。5年目という節目と、絵本の出版を終え落ち着いたこともあり、受諾した。

2011年の震災から一ヶ月後に、描いた作品が「生きる」だった。当時瑞季さんが通っていた中学校の先生から声がかかり、もう一名の生徒と共に、支援者から届いた物資のお礼として描いた画だった。その後、それらの作品は復興支援の絵はがきとして採用され、メディアで取り上げられ話題を呼んだ。その後も画を描き続け、震災から5年目の今年の2月26日には、絵本「なみだはあふれるままに」を出版した。7歳のときから石巻のアトリエに通い始め、以来アートに関わってきた瑞季さん。現在は山形の東北芸術工科大学のグラフィックデザイン学科に在学中だ。「技術的なこととディレクションを勉強していますが、デザインの道に進む気はありません。あまり得意ではないので」とキッパリ言い切った。いま学んでいることはどんな形であっても活きてくるので、と括った潔さを清々しく感じた。

アーティストとして生きる覚悟。

アーティストとして生き、色々なプロジェクトに関わっていきたい、と話す。最も得意とするのは、アクリル絵の具を使った表現。今回出版された絵本「なみだはあふれるままに」のイラストとは、また違うテイストの作品だ。
2015年には、絵の具メーカー主催のコンペにエントリーし、見事入賞した。しかし、瑞季さんはもうコンペには参加したくないと言う。「人を想わないと描けないんです。自分がトップになるための画を描いていて、とても違和感がありました」と話す。卒業後はキャリアを磨き、ゆくゆくは海外へ行きたいと考えている。現時点で候補として考えているのは、ヨーロッパやニューヨークへの短期留学。英語の勉強は、と聞くと、もう止めましたと返ってきた。「英語は慣れないと吸収しない人間だと自分で思ったので、現地に行って覚えようかと」。またしても、潔い。就活してどこかの企業に就職することは、考えられないという。秋に開催されるアート展のデザインチームの一員として参加予定だそうだ。このような活動を通じ、自分の居場所を見つけたいと話す。

いつか女川で、町全体を巻き込んだアートプロジェクトを立ち上げたい、と話してくれた瑞季さん。コミュニケーションやワークショップなど、町全体を巻き込んだ素敵なアートイベントにしたいそうだ。震災後は、女川に色々なアーティストが来たこともあり、アートプロジェクトもあった。中には、やればいいというものでもないと感じたこともある。今だからこそ、言える言葉だ。「ここ(女川)がどういう場所なのかしっかり考え、計画し実行する。海岸に作品を作る、といっても、その場所は、多くの人が亡くなった場所だとわかっているのかと聞きたくなりました。アーティストだから、と自己満足な主張をすることはしたくない。作るなら、見た人が美しいと思うものを。一方通行ではいけない。おしゃれで、色をたくさん使ったイベントにしたい」。はっきりと、戸惑いなく想いを語る瑞季さん。いつになるかわからないですけど、しっかりやりたいです、とつぶやいた。そこに見えたのは、中途半端を嫌うアーティストの覚悟だった。

アートを通じてまちづくりに協力していきたい、と話す瑞季さんとシーパルピアを歩いた。変わりゆく女川について聞いてみた。「完成する姿を見ていいなと思う反面、女川らしさを大切にして欲しいと思います。色々な方面のプロの方が町に関わり続けてくれるとうれしい」と微笑んだ。

女川に愛され、女川を愛す。

女川町内には、瑞季さんの絵本「なみだはあふれるままに」を扱うお店が何店舗かある。店内に入ってすぐの場所に飾ってあるスーパーを訪れた。わぁうれしい!と笑顔になる瑞季さん。応援され、愛されている証拠だ。

そのままシーパルピアを歩き、初めて入るという【女川町まちなか交流館】へ。中へ入ると、ガラスケースの中に、女川の完成模型が飾られている。ちょうどそこに居合わせた観光協会の会長さんが、直々に説明してくれた。ここには芝生が入るんだよここの空き地はこうなるよ、などと聞きながら、震災遺構として保存される女川交番や新しくできるエリアについて瑞希さんも質問。音楽スタジオなどを覗きながら、交流スペースで引き続き絵本について聞いた。</url 鈴幸さん記事につなげては?>

震災のあった2011年に瑞希さんが描いた復興絵はがきがメディアに取り上げられ、大手新聞社に掲載された。その年の12月に目にとめてくれた大手出版社の編集長から、本の企画の連絡があった。決まったことは、震災をテーマに瑞希さんが本の絵を描くことだけ。期限は、無かった。「心の状態を少しずつ回復させながら、製作していきました。震災がテーマということもあり、難しいと感じることもありました」と振り返る瑞季さん。震災5年目の今年2016年に絵本も完成。2012年から制作を始め、丸4年かけてのことだった。

「わたしの4年間がギュッと詰まった本。大学一回分ですよね、4年と言えば。
これは代表作というよりも、15歳のわたしが感じたことを現す資料だと捉えています」。とても愛しい、と話す絵本は、詩も、とても暖かい。最初は文章を考えることにもチャレンジした瑞季さんだったが、思うように表現ができず断念。震災を経験した人にも、そうでない人にも読んでもらいたい、長く愛され長く人のためになる本にしたいという瑞季さんの希望から、出版社が童話作家内村麟太郎さんを紹介してくれることに。共に女川を訪れ、現地を感じた上で詩を書き上げてもらった。詩が完成してきたとき、これが求めていたもの、作りたかったのはこれだという実感が瑞季さんの中に芽生えた。「心象風景に合うような、優しく語りかけてくる内容でした。少しのねじれも見る側に伝わってしまうので。出版社のパートナー、編集長の理解が無いと作り上げられないものだったと思います」と話す。詩をもらってから制作にはいり、一年から一年半で原画を完成させ出版。常に心理状態も考慮してくれ、彼女のペースで進めてくれたことに、瑞季さんは感謝している。

原画展を女川で。

今年の秋には、本のイベントで内村麟太郎さんと朗読会を企画中だそうだ。この本をより多くの人に愛されたい、という瑞季さんが切り出した。女川を舞台にした絵本ということもあり、ぜひ女川で原画展をやりたい、と。きれいに印刷されているのだが、やはり原画と印刷とでは、全然違うのだそうだ。女の子がまっすぐと歩いて行く画がある。「ページが、映像で見えたんです。すごいスピードで成長していく草の姿が。これが、私らしさが一番出ている画だと思います」。瑞季さんが作り出す作品の一つ一つに、物語があるのだ。原画展をやるときには、絵本のページに登場する作品それぞれにキャプションやストーリーをつけてほしい、とその場でお願いしてしまった。

絵本を開きページを追うごとに、どんどん鮮やかに明るくなる画。こういう色を出せるようになったことが進歩、と話す。瑞季さん自身の成長と、心の状態がよくなった証でもある。「実は、こういう画を描くのが苦手でした。技術面の葛藤もありました。公表されるにあたって自信を無くしたときもありました」。
難しかった、とつぶやき、完成してホッとしている、と柔らかな表情を見せた。震災、というデリケートなテーマは、普通の本を作るよりも難しかったことが想像できる。被災者でありながら、アーティストの表現としての絵本。愛しい、という気持ちになるのも理解できる。

インタビューが終わり、観光協会会長さんに原画展のことを早速打診。なんとかする、という力強い言葉をいただいた。実現がその場で決まる。いかにも、女川らしい。東北芸術工科大学卒業は2018年。それまでの2年間、アーティスト神田瑞季として、さらにどう進化していくか。女川のまちづくりに貢献するその日を、今から楽しみにしたい。

女川こぼればなし

女川には瑞季さんを応援したい人が、多くいる。SNSにアップされた写真を見たコメントの多くが、わぁ大人になってる!というものだった。観光協会会長さんも、最初は気づかないほどだった。これからも町の人びとに愛され見守られ、素晴らしいアーティストに育っていくことだろう。