女川に惹かれた。東北の旨い魚を求めていた。
初めて女川を訪れたのは、2013年2月。オープンして間もない宿泊施設のシェフにならないか、という打診が吉田シェフの元に届いた。様子を見るために、一週間の滞在をすることになった。「冬の女川は寒く感じました。当時は電車も開通してなくて、なにもない、という印象でした。」と吉田シェフ。その間、厨房に立ち、ホテルのメインシェフとして、料理を任された。既に揃っている食材と女川の新鮮な魚介類を吉田さんが自ら選び、調理した。
元々、女川に興味を持っていた吉田シェフ。東北の産地直送の魚を探していた時に、真っ先に浮かんだのが女川だった。ほたて、牡蠣、さんま。いつか使ってみたい、とずっと思っていた。一週間の滞在を通じ、地元の加工業者や廻船問屋と繋がった。いつか、と当時思ったこの時のご縁は、店を構えた今も尚続いている。
ふたたび夏に女川に戻り、地元で話題のスパイスを使った新商品のアイディアやメニュー開発に関わったりもした。結果、宿泊施設のシェフになることは叶わなかったが、吉田さんの女川に対する想いが、薄れることはなかった。
女川をずっと見続ける。ご縁は絶やさない。オトコ同士の、約束。
仕事として受けないことが決定的になれば、ハイそれまで、となるのが通常かもしれない。吉田シェフは、違った。女川を去るときに言われた言葉が、忘れられないのだ。「これからも、女川を見ていてください。縁を、絶やさないでください。」その想いを抱え、有言実行。女川を初めて訪れてから一年後の2014年に、自身の店舗を東京の市ヶ谷にオープンすることになった。女川との繋がりを、ここでフル稼働させる。
店のロゴは、女川の若手グラフィックアーティストに制作を依頼。何種類かデザインしてもらった中から、吉田さんがイメージに合ったものを選んだ。店のインテリアを彩るのは女川のタイル工房で作られているスペインタイル。店内の店舗ロゴのプレートや、洗面所エリアをぐるりとカラフルに囲んでいる。今でもタイル工房のメンバーが、年に一度「嫁入り」したタイルに会いに、吉田さんの店にやってくる。女川とのご縁は健在だ。「俺にできることをしようとしたら、こうなっただけ。」さらりと言う吉田シェフ。これぞ、男気なのではないだろうか。
スオーロ・ダル・スオーロのモットーは、「ガッツリ飲んで、ガッツリ食べる!」それは、ただ量をやみくもに食べさせるのとは違う。吉田さんの言う「顔が見える食材」であることが必須条件だ。店名のSuolo Dal Suolo(スオーロ・ダル・スオーロ)は、【土から土へ】というイタリア語の言葉だ。全国各地から、選りすぐりの肉や魚、野菜が届く。その中に、女川の新鮮な魚を入れたい。開店当初から、女川での滞在で知り合った廻船問屋から仕入れることにした。今では、メニューに「女川産」と書かれているのを見かけたら必ず注文するお客さんがいたり、今日は女川の魚は無いの、と声がかかることも多くなった。
スオーロに来たお客さんが肌身で感じる豊かな時間に、女川が大きく貢献している。一度訪れれば、一瞬で分かるはずだ。
原点は、母親との確執。バネは、コンプレックス。
小規模から大規模まで、ありとあらゆる店舗でのシェフ経験がある吉田さん。食の原点はどこにあるのか、聞いてみた。 1972年、東京都荻窪で生まれ。シェフを志したのは、高校卒業後のことだった。ご両親が共働きだった吉田さんは、近所の知人や友人の家でご飯をごちそうになることが多かったという。そんな中、衝撃的な事実に気づくことになる。「友達の家で出てきた味噌汁のワカメの色が、緑色だったんですよ。」一瞬、何を言われたか分からなかった。ん?緑じゃないワカメって一体何色?ちょっと考えて、それってもしや見慣れていたのは茶色ってことですか、と聞き返すと、そう、うちのはグダグダに煮えきってた、ってことです、と。味噌汁だけではない。ふわふわのオムレツを食べて、幸せになった。同じものを母親にお願いすると、出てきたのはボロボロのスクランブルエッグ。違う、これじゃないと怒っても、何も変わらない。
うまいものを食べたいだけなのに、お願いすると母親とバトルになる。成長の過程でふと気付き周りを見渡すと、裕福な家庭ばかり。すぐそばに有るものが、自分のところには無い。一事が万事そうだった。こんな生活に吉田少年は、ひどくうんざりしていた。どんどん大きくなるコンプレックス。小学校高学年になるころには、近所の家に入り浸るようになり、家にいることがほとんど無くなった。
中学時代はサッカーと塾通いに明け暮れ、高校に進学。バイト三昧の日々を過ごしていた。「元々バイト先にうなぎ屋を選んだのも、ただ単に時給が高いから、という理由だけですよ。」あっけらかんと吉田さんは言う。食に興味があって選んだのかと思っていたら、もっと現実的な理由だった。当時で時給650円は、高校生にとっては高額。時はバブル。オーナーが焼肉や美味しいごちそうをおごってくれたりもした。満足だった。
長い下積み時代。どんなに辛くても、逃げなかった。
二年後、気づけば進学できる大学などなくなっていた。ならば手に職をつけようと専門学校に行こうかと思っていた矢先、バイト先の先輩に言われた。ばかやろう食の道に進みたいなら、学校なんていくもんじゃない。なるほど。納得して、料理人としての修行の道を選ぶことにした。その先輩が日本食の店を紹介してくれるとのことで安心していたら、いつまで経ってもその気配は無い。不安になった吉田さんは、自らの就職先を決める。イタリアンのコックとして、雇ってもらったのだ。これが、吉田さんが一人前の料理人になるまでの下積み時代が始まりだった。
イタリアン、と言っても名ばかりで、最初の就職先は和風スパゲッティの店だった。特段技術がいるわけでもなく、目指している料理人とは程遠い。違う、やりたかったことはこれじゃない。すっぱりと辞め、そこからは、数年おきに数々の店舗を渡り歩き、修行を重ねていった。東京、名古屋、北海道。日本全国の厨房を体験した。朝から夜中まで働き通しで、身体を壊したこともある。厨房での下積みも、厳しい時代だった。今の若い子だったら耐えられないでしょうね、と吉田さん。間違いない、きっと逃げ出すことだろう。
昔はよかった、という話をしたいわけではないと言う。ただ、厳しい環境に直面したときに、逃げだす若者が多すぎるように感じている。育てようとはしたが、皆脱落していった。「だから、いま一人でやってるんですよ。一緒にがんばってくれる人がいない。これだ、と思う人に出会えない。」吉田シェフは嘆く。優しくしないと、逃げてしまう。厳しさも愛であることが、伝わっていないのだろう。私も、中途半端なアシスタントを雇うくらいなら独りで動いたほうがラクだと思っている口なので、痛いほど気持ちが分かる。とは言え、未来の料理人を育てたいという気持ちは強い。完全に叶わなくても、同じくらい気骨の有る若者が女川から出てきたりはしないだろうか。吉田さんにはそんな想いもある。修行を重ね、しっかりとした技術を身につけ、故郷に帰ればいい。女川とのご縁は絶やさない。ここでも、約束を果たせるかもしれない。
スオーロと女川、のこれから。
イタリアンのシェフとして2014年9月に独り立ちして、もうすぐ一年と半年になろうとしている。ランチは日々満席、夜も賑わうスオーロ・ダル・スオーロの今後の展望を聞いた。恥ずかしいな、、、と言いながら、吉田シェフは宣言する。「もっと、多くの人に自分の料理を食べてもらいたい。全国から送られてくる産地直送の新鮮な食材をフルに活かし、お客様にふるまう。みんなが笑顔になる、そんな時間を提供し続けたい。」そして今よりも、さらに女川の食材を使いたいと言う。もっと、女川を引き寄せたい。どんな形で、メニューに登場するのだろうか。いまから楽しみだ。
吉田さんが結ぶ、女川とのご縁。女川をずっと見続ける。この熱いオトコは、覚悟の約束を、間違いなく一生かけて果たしていく。
女川こぼればなし。
「お前なに人生余裕こいてんだよ!!」厨房から出てくるなり、吉田さんが叫ぶ。言われた若者は飛び上がる。心の底から想って、心配しているから出てきた言葉だった。こんな風に言ってくれる人がいるその若者のことを、ちょっっぴりうらやましいなと思った。吉田流エールを受けて、はばたけ君よ。