女川を離れたのは、人生で、たった3ヶ月。それでも恋しくて恋しくて、たまらなかった。

32歳。女川生まれ、女川育ち、とにかく女川大好き。生まれてこの方、三ヶ月しか女川を離れたことがないのだそうだ。
初めての長期不在の理由は、なんと世界一周の旅。国際交流を目的としたクルーズだ。震災から2年後、2013年7月に被災地からの参加者として招待された。震災の被害や現状などについて、世界各国で伝える任務を与えられたのだ。大型客船が停泊する場所は、当然のようにどこも港ばかり。行く先々で、自然と女川と比べてしまうD-BONSさんがいた。観光地としての港には、さすがと感じさせるものがあったという。「世界の港は、すごいと思いました。お客さん目線で考えると、なんて楽しそうなんだ、と。」下船すると繁華街はすぐそばにあり、遊園地やロープウェイがあることも珍しくなかったという。一番印象に残った、というジャマイカでは、現地でグラフィティを描いたり、子どもたちに描かせたり、タクシーの運転手にお願いされて車をペイントしたりした。すべてが、ライブだった。リアクションが大きく明るいことが心地よく、リズムがピッタリでした、とD-BONSさん。

なによりも、津波の話をしたときに一番熱心に聞いてくれたのが、ジャマイカの人びとだったいう。他の国々では、日本側の何名かがプレゼンをし、それを聞いてもらうというパターンだった。質問はチラホラ、あまり活発な質疑応答にはならなかったという。ジャマイカは違った。「津波が来たらどこへ逃げたらいいか。この辺りには、高い建物は無い。じゃあ山しかないよね、といったように、会話をしているようでした。」活発な意見交換をしてこその国際交流。自身が女川で体験したことが、世界中に学びとして広がっていく。そんな実感を得た時間だった。

南米を後にし、太平洋に船が出た。日本へ着く二週間前、故郷がたまらなく恋しくなった。女川が舞台となったテレビドラマを見せて説明している時も、帰りたくて仕方なかったという。生まれた時から大好きだった町の存在が、自分の中でさらに大きくなっていった。

ヒップホップとの衝撃的出会い。

初めてスプレー缶に触ったのは16歳。きっかけは、友人のお兄さんが持っていたビデオだった。ヒップホップに出会ったのは、この時だ。日本人ラッパーのライブ映像に、釘付けになった。D-BONSさんは振り返る。「この年齢って、社会に不満を持ちイライラしている頃。画面の中には、思っていることを全部言ってくれている大人がいる。衝撃的でした。」

ヒップホップをより深く知っていくうちに、グラフィティという表現に出会う。これだ、と感じたのは、極めて自然な流れだった。子供の頃から絵を描くことが大好きだった。写し書きを始め、上達すると、好きなキャラクターを描き始めた。それが物足りなくなると、オリジナルキャラクターを描き始めた。「グラフィティの鉄則はオリジナルであれ、なんですよ。人の作品をパクった瞬間、ダサイ、んです。」オリジナルの画を描くグラフィティライターになる、と決めた18歳、人生の師匠と石巻で出会う。アーケードのシャッターにアニメのキャラクターを描くプロジェクトに呼ばれた、東京の著名グラフィティアーティストだった。頭を下げ、一ヶ月プロにくっついて回った。終わった頃には、すっかり虜になっていた。

その師匠とは、毎年3月11日、テーマを決めて一つの作品を描いている。震災後やっと連絡が取れた時、食料も服も無いような状況の中、なにが欲しいかと師匠から聞かれて出た言葉は、スプレー缶、だった。支援物資を持って女川に駆けつけてくれたその日から、絆はさらに深まった。だからまっさらのままとってあるんです、と言って、店内の壁を指した。二人の魂のメッセージで壁が埋め尽くされて初めて、店が完成する。

D-BONS誕生秘話。

高校卒業後に働きながらグラフィティライターとしての活動を始め、震災後は、色を失った町をグラフィティで少しずつ活気づけていった。今では女川町内のイベントでは欠かせない存在となり、ライブペイントを披露している。日本各地のイベントから声がかかることも多くなった。

アーティストとして最初に選んだ名前は「DATE STREET(伊達ストリート)」。宮城出身ということもあり、大好きな戦国武将、伊達政宗の名前を入れた。ストリート、がしっくり来ないと思っていた最中、現在のアーティスト名を名乗るきっかけとなる出会いが訪れる。町立病院でアルバイトをしていた頃、「ぼんず、ぼんず」と呼びかける男性がいた。なんのことか分からず聞き返すと、方言で「やんちゃ坊主」の意味だと知る。ピンと来た。そうだ俺は、伊達のやんちゃぼうず。D-BONS誕生の瞬間だった。「町のみんなに【ぼんちゃん、ぼんちゃん】って呼ばれることが、うれしいんですよ」そう言ってほころんだ顔は、まさに町のみんなに愛されているやんちゃ坊主の顔そのものだ。「アンパンマンを斜め45度の角度から描くのって、俺くらいしかいないとおもうんすよね。」と笑う。それならば、とリクエストすると、ヒップホップである以上、即興断れない!と言いながら、照れながらも手帳にさらさらっと描いてくれた。さすがはアーティスト。

SUGAR SHACKに込める想い。

シーパルピアに出店することが決まった時、浮かんだのはある一枚のアルバムカバーだった。砂糖を作る小屋の中で、音や光が漏れないよう小さく照らした灯りの下で踊る人びと。差別を受け、クラブやバーなどに行けるはずの無かった時代のワンシーンだ。「今の女川はまだ建物もなく、騒ぐことができる場所もあまり無いけれど、あそこだけが光っている。あの画のような、そんな場所にしたいなと。」もちろん差別と震災とは違うけれど、と付け加えながら、町の灯になりたいとD-BONSさんは言う。その気持ちは、こだわりのライトにも表れている。イベントの時は、店内の照明をすべて落として、ひとつのライトだけを点灯させる。木目の内装もまた、ネーミングを表現している。ちょっと朽ちた、古びた木造倉庫のイメージだ。

SUGAR SHACKで、自分にとっての当たり前のことを全て女川でやっていきたいと、淡々と語るD-BONSさん。「震災が起きたとき、ご飯を食べる、誰かに会う、そんなそれまでの当たり前が、どれだけ大切で、難しいことなのかを痛感しました。」女川町は、これから先もずっと続いていく。自分にできることは、なんなのか。まだ手が回らない部分、それは、10代20代が楽しめて、自ずと興味を持てるような町にしていくということ。自分は上の世代とも繋がっている、だから、若い世代を町の活動にも繋げることができる。気負うこと無く、自分がかっこいいと感じることを追求し、発信していく。そうすることで、気づいたら新しい若者文化が根付いていた、日常になっていた、目指しているのはそんな景色だ。

「振り返ってみると、変わってないな、と。店も、きっとどこかのタイミングでやっていたと思う。向かっていく方向は、アーティストになると決めた時から、変わっていない。」2016年は、制作活動に重点を置く年にしたいと言う。アートフェスにも積極的に参加し、個展開催も視野に入れている。グラフィティライターD-BONSには、ぶれない軸がある。女川が好きだから、画を描く。みんなでワイワイしたいから、店をやる。やりたいことを、ひとつひとつ具現化していく。生まれたころから、愛してやまない女川で。

女川こぼればなし。 某国の王子が女川に来た時のエピソード。画を描いてプレゼントすることになった。なぜか、画に王子のサインを入れてもらったほうがいい、と言われたそうだ。なぜプレゼントする人のサインを、、、と思っていたところ、なんでプレゼントとしてもらうのに自分がサインするんだ、描いてくれた人のサインをほしい、と王子自身が言ったという。さすが、わかってます。いつか、宮殿でライブイベントが実現したり、して。海外進出がいきなり王室か。俺らしいかも!そういって大笑いするぼんちゃん。合言葉はもちろん、うぇいよー。