みんなが仲間になる。そして共に進む。

かっこつけないけど、それが逆にかっこいい時がある。それを体現しているのが阿部淳さんだ。常に自然体で、目の前の物事や人と向かい合っている。そこに人びとは惹かれ、憧れるのだろう。女川町の若手リーダーの淳さんは、町内外の老若男女から慕われ、頼られている。

「地元の人たちが、自分たちで祭を作って行こうという気持ちが強い。そこがなによりも嬉しい」と笑顔で語る淳さん。女川町復幸祭2016当日の朝のことだ。駅前商業エリアが完成したことで、例年に比べると、今年から使えるエリアが広くなった。シーパルピアと呼ばれる商店街のプロムナードを、町として初めて大きなイベントに使う試み。「女川では、新しいスタートが色々始まっています。それを知ってもらうのが、今年の復幸祭なんです」。意気揚々と語る淳さんは、どこか誇らしげだ。今年の目玉は、と聞くと、子どもブースと体験コーナーという答えが返ってきた。地元のファミリー層に楽しんでもらいたいという。家族で訪れ、体験を通じプロムナードを知ってもらう。お互いを知ることで、町の中で連携してみんなが仲間になってくれればいい、と話す。

もうひとつの目玉は【ONAGA-1(おながわん)フェスタ】。去年までの復幸祭には無かった、新しい試みだ。副実行委員長が協力してくれる飲食店に声をかけたことで、実現した。「女川の人たちが自分で気づいて、工夫するキッカケになるといいなと思います。会場全体がONAGA-1フェスタになるところまで行けばいいですよね」。いずれ、単体のイベントとして独立できればと考えている。

町を盛り上げるためには、自ら気づき、自ら動いていく。できることを、できる人がやっていく。女川に浸透しているこのスタンスは、明快だ。今年はスラックライン、という新しいスポーツの女子世界チャンピオンと男子日本ランキング3位のライダーも、復幸祭でパフォーマンスをすることに。これも町民の一人が個人的な繋がりを活かし、町のみんなを喜ばせたい、と自ら動いた結果に他ならない。

女川らしさの体現。

実行委員長として5年目の淳さん。今後について聞いた。来年以降は、実行委員長の交代を視野に入れている。バトンは、淳さんが所属する女川水産加工研究会から、商工会青年部へ。「もともと復幸祭には、女川町内の一体感を若い人から生み出したい、という狙いがありました。委員長を交代することで、やりたいことを我慢するのではなく、表現しリスペクトしながら次へつなげていけるのでは」と話す。新しい委員長に交代することにより、違う考えも出てくることで、新たな学びや気付きが生まれるのではと感じている。加工研と青年部という町内の二つの異なるグループ間での更なる交流も、期待してのことだ。

「本気でやっている人を、バカにするような土壌じゃない。足を引っ張ることも、邪魔してやろうという気持ちもない。自分たちだけでは気づけないものに触れ、常に刺激を受けている。好奇心も旺盛。女川らしいですよね」。互いを応援し、支え合う町。女川の大きな魅力であり、原動力だ。

ラガーマンからサラリーマンへ。

昆布巻き【リアスの詩】シリーズでその名を知られている水産加工会社【マルキチ阿部商店】の三男として生まれた淳さん。男3人、女1人の四人兄妹で育った。商売をやっている家庭が子どもの頃は好きでは無かった、と話す。家業が忙しいため、家族旅行などはほとんど無かったそうだ。「おやつやごはんが、友達の家では出てくるものと違う。なにが普通なのか、わからなかったですね」と振り返る。兄妹同士はとても仲が良く、仲間たちとよく海や山で遊んだそうだ。

干渉されずに育った、と話す淳さんは、高校からは石巻へ。一番上の兄の影響で、淳さんもラグビーを始めた。バリバリの体育会系の環境で過ごすこと七年間、大学卒業まで、ラグビーに打ち込んだ。「ラグビー部は、体育会系中の体育会系。でもその体育会系の精神は、のちの人生に大きく影響しましたね。理不尽だらけな中、不平不満を言ってもしょうがない」。淳さんの精神力の強さは、ここから来ている。

急すぎた人生の大転機。

卒業後は、人工透析の機械を売っている会社に営業担当として9年在籍。このままキャリアを続けるのかなと感じていた時、人生の大きな転機を迎えることになる。兄が急死し、一週間後には父親が亡くなるという不幸に見舞われた。阿部家は、家業を回していた二人を一挙に失ってしまった。「ショックでしたし、自分たちは悲しいけれど、世の中は普通に流れていく。母は急に二人いなくなって意地になっている部分があり、自分がサポートしなければと」。生前、父と交わした約束を果たさないといけない。家業を潰したくないから、自分が戻る。そう決意した。今から12年前のことだ。

元々家業を継ぐつもりが無かった淳さんに、水産加工の知識は一切無かった。業務を覚えること、流れの感覚を掴むのに必死な毎日。新しい視点からの気づきが無い訳では無かったが、母であり社長でもあるすが子さんに、どう考えているか常に聞いたり、事務作業などの苦手な作業を淳さんが引き受けるなどしたりしながら、進めていった。「二人で一人、という感覚です。母は、同志です」。まさに、二人三脚そのもの。共に悲しみを乗り越えた、親子という関係を越えた揺るぎない絆だ。

もっと女川を知って欲しい。そのためにできること。

女川町で生き残っている水産加工会社が少ない、と淳さんは言う。マルキチ阿部商店は、創業90周年を誇る。「祖父の代から続けてきました。少しは、世の中の人の役に立っているのかなと。それを伸ばしていきたい」。女川の人、に限ることなく、さらりと「人」と言えるところが淳さんらしい。全国各地で開催される物産展にも、積極的に出展している。気合を入れすぎずに自然体で行っているのがいいのかもしれないですね、と笑う淳さんとマルキチ阿部商店が出店すると、ブースはいつも大賑わい。

淳さんは言う。「もっと女川を知ってほしい。そのために、色々な人に手軽に食べられるものを作っていきたい。いままで着手していなかった分野にもトライしたい」。安価で手に入れることができ、日常的に食卓に並ぶような食品。日本人のDNAの源流、奥底に刻まれているものはあると感じている。最近の時流で洋食に偏りがちな中、和を大切にしながら、若い人も食べたいと思うようなものを作りたいそうだ。効率だけ求めて作られた加工品が多いと感じている。だからこそ、ある程度手間かけても、おいしいものに仕上げることが大切になってくる、と言う。

「昆布巻きなど、苦手だと思っているものほど、美味しく食べてほしい。日本人が食べておいしいと感じるもの。若い人もお年寄りも、食べてみたらうまいと感じる、そういうものづくりを目指したい」と意気込む。現代の食卓に合わせ、寄り添った商品として、目下新商品を開発中だ。映画「サンマとカタール〜女川つながる人々」にも登場した、小女子のオリーブオイル漬け。パスタに載せたり、ピザに載せてカリカリにして食べたり、ごはんに載せたりと幅広く活用できそう。今年中に完成、販売を目指すとのこと。期待が膨らむ。

マルキチ阿部商店、海外へ。

訪日観光客が年々増えつつある中、女川もその流れの一部になれないかと淳さんは考えている。新たに町が進化していく過程で、最先端のインバウンド対策をできるのではないかと感じている。

女川の水産加工品の海外進出の機会をうかがうため、何度か中東のカタールにも飛んでいる。カタールは、親日国家だ。ジャパニーズ、と聞くと、喜ばれるという。ただ食品を販売するためには、ハラール認証を取らなければならない。お酒とみりんなどのアルコール系調味料を使用することができない。日本産の多くの加工品に入っているため、そのまま持って行ったとしても販売できないのだ。中身もさることながら、文化に寄り添った味つけやパッケージも不可欠だ、と淳さんは考えている。

アラビア語も英語も話せないのに、カタールに飛んだ。コミュニケーションを取りたくても取れないような環境で、文化や習慣に触れた。カタールでは、大きい食卓で、大皿から食べるそうだ。日本ではニーズの高い小分けサイズだと、逆にここでは勝負ができない。映画「サンマとカタール」では、興味を持ったカタールの関係者が、試作品を興味津々に試食する様子が映し出されている。

カタールでは人気だという日本食レストランに行った時のことを話してくれた。
「焼き魚、と言って、魚の開きにタンドリーチキンにかけるようなソースがべっとりかかったようなものが出てきました。下味もついていない。生臭さを消すといった処理も当然されていませんし」。これが和食、として売られているのかと思った時に、疑問と危機感を覚えたという。だからこそ、本物の和食をカタールで売りたい。気づいた人や会社が動けばいい、と淳さん。これからも、丁寧に作り上げたものを作り届けていく。創業以来、変わらない理念だ。

また、大阪のイベントに出展した時は、試食したアジア系の来場者がたくさん買って行ったそうだ。「以前は顔をしかめていたような人たちが、たくさん買って行きました。味覚が変わってきたのかなと。食のレベルが上がったということだと思います」と淳さんは言う。訪日する人数も機会も増え、本物の和食、を求めるようになってきたのだと見ている。

復幸祭と女川のこれから。

女川町は、日に日にレベルアップしている、と淳さんは言う。「仕事でも、人生でもそのレベルに達してないと、何を言われてもわからない。何言ってんだ、で終わってしまう。聞こえないんですよね」。様々な経験や体験を通じ、町は変わったと言う。震災後の女川は、常に刺激的。以前は隣町の石巻でよく飲んでいたのに、今は地元の女川で飲むようになった。誰と会っても対等な話ができるようになったのは、大きい。年下の人が来てもバカにされず、一緒に飲み交わす空気感。町の外の人が来ても、入りづらさは無い、オープンな雰囲気を作り出している。

後日、淳さんに復幸祭を振り返ってもらった。「女川町の人たち、地元の人たちが多く来てくれたのが嬉しかったですね。これまでボランティアに来てくれた方々も、お客さんとして来てくれた。5年目の節目としてはよかったのかな、と思います」。来場者数は1万2000人。女川町の人口の倍ほどの人数だ。女川町の規模にしたら大成功、と話す。地元の人に一番喜んで欲しいと思っていた淳さん。高齢の方が興味を持つコンテンツが少なかったのが、唯一残念だったそうだ。実行委員が若手ばかりだったこと、高齢の方への声掛け等の協力要請が遅かったことなどを反省点として挙げた。

淳さんの目線は、もう来年以降に向かっている。プロムナード全体を使うという方向は決して間違えてなかったと感じている。端から端まで歩いてもらって、もっと知ってもらうことはできたのではないか。今後は、さらに楽しめるよう改善点は取り入れていく。笑顔が多かった、と嬉しそうに繰り返す淳さんの声が、暖かく響いた。

女川こぼればなし

ふと窓の前を横切った親子の手には、ビニール袋に入ったどじょう。思わず、どじょうは育てて、最後はたべるの?と喜々として淳さんに聞いたら、食べないです!!と即答された。情が湧いてきて、食べる気になんてならないそうだ。売れ残ったどじょうを引き取ることになることも多いとか。