女川で生まれ、女川で育って、女川を出た。自分のタイミングで。
初めてパソコンに触れたのは、保育所時代。加えて、おばあちゃんの家にもパソコンがあり、触りたい放題だった。最初はゲームを遊んでいただけだったのが、徐々に、何かを生み出したいと思うようになった。自然の流れで辿り着いた将来の夢は、プログラマー。情報屋が、パソコンを使ってどんどん問題を解決していく、漫画の影響だった。自らの手で、何かをすることに憧れた。中学生のときのことだ。
車の修理工場を兼ねた販売店を経営しているご両親は、工業高校への進学を希望した。長男として家を継ぐことへの期待は、小さい頃から感じていたことだった。でも、どうしてもやりたかったのはパソコン。商業高校の情報処理科を選んだ。進学後、衝撃の事実に直面する。「プログラマーになるには、英語ができないとダメ、だってことに気づいてしまって。ショックでした。」どのコマンドも英語だらけ。一気に夢がしぼんだ。覚悟して選んだ道で、人生初めての挫折を経験した。
そんな時、ふと観ていたテレビ番組に心惹かれるようになった。チーム戦で服を仕立てていく番組。一つのチームが、どんどん優勝を重ねていく。白いスーツの片腕は甲冑という斬新なデザイン。目が覚めるような思いだった。「服、でできることがこんなにあるとは思っても見なかったんです。自分も、自分の手で同じことをやりたいと思いました。」優佑さんの目が輝いた。情熱の在り処が見えた。
高校生ともなれば、ちょうどファッションのおもしろさに目覚めて来るタイミング。大好きなブランドにも出会い、三年間はそのブランドしか着ないほどのめりこんだ。テレビ番組で見たチームと、ブランド創設者の出身校は奇しくも同じ。進むべき方向は、自ずと決まった。当然、ご両親は大反対。高校進学の時と同様に、家業を継ぐという選択肢はまだ残されていた。仙台の学校に進学すればという助言も振り切り、東京行きを決めた。「どうせ帰るだろう、どこかで諦めるだろう、と思われていたんじゃないかと。だからこそ、やってやりたかった。」今度こそ、夢を叶える。2002年、東京での暮らしが始まった。
夢は叶う。思ってもみないタイミングだとしても。
四年間しっかり学び、2006年に専門学校を卒業。服飾の道に進む気満々だった。ここで、人生第二の壁にぶつかる。入りたい会社が、見つからなかったのだ。大手メーカーは、ちっとも心に響かない。ここでやりたいと思うところは、どこも個人商店ばかり。新人を受け入れるキャパシティのあるところは、無かった。卒業後に行く当ても無く、ただ時間だけが過ぎていった。そんな中、卒業間近の1月に、叔父から連絡が。某電気会社の子会社で働かないか、という打診だった。ポジションは、なんと、プログラマー。パソコンが嫌いになったわけではない。一からすべて教えてもらえるということもあり、快諾した。まさかのタイミングで、まさかの大転機。「夢は、叶うんだな、と思いました。形だけだとしても。不思議な気持ちでした。」そう淡々と言いながら笑う優佑さんの笑顔は、どこか清々しかった。子供の頃からの夢が、叶った瞬間だった。
研修三ヶ月で、プログラミングを必死に勉強した。そんな中、社内の異動があり、プログラマーからプロマネへの転換を余儀なくされた。やりたいと思ったことと、現実はかけ離れていく。心が揺らぎ始めた時、アパレルをやりたいという気持ちが再燃。一年半雇われの身になってわかったことは、人に使われるのは嫌だ、ということだった。理想のメーカーも無いし、好きなブランドも消えた。だとしたら、個人でアパレルをやるしかない。いきなり店舗を持つのは現実的ではない。だったら通販だ。そう考え、一年半務めた会社を辞め、ウェブデザイナーの道を選んだ。それから7年間、ウェブデザイナーとしての活動は続いた。
30歳から走りっぱなし。常にやることがでてくる。だから、おもしろい。
ウェブデザイナーとして働きながら、アルバイトを並行して続けた。そんな最中、2011年の震災が起きた。もちろん、すぐにでも女川に帰りたいと思った優佑さん。そうは言っても、東京での生活もある。気持ちだけで帰るわけにもいかなかった。女川に何が必要なのか。自分にできることを見つけてから帰る。そう決めた。完全に女川が復興するまでに十年はかかるだろうという声が聞こえてきた。最初は、がむしゃらに突っ走るに違いない。ここで優佑さんは考えた。「復興までの十年間の後半戦、女川で踏ん張るヤツがいなければ、町は寂れていくだけだと思ったんです。」自分が、その踏ん張るヤツになる。静かな覚悟だった。
女川で、できること。女川にとって、良いこと。答えを模索している時にとある飲食店に通うようになった。ビール工場を併設したブルーパブ。こんな店が都内にあること自体が、驚きだった。一軒家を改築し、寸胴でビールづくりをしている。これなら、自分にもできるかもしれない。女川に帰ってやりたいことを話し、アルバイトとして入り、修行を積む中で色々なノウハウを身に付けてていった。
女川でブルーパブをやる。お手本としてのポイントはいくつかあった。規模が小さいのに、ビジネスとして成り立っていること。お金をそんなにかけずにできていること。作っているその場でビールが飲めること。女川は、東京より家賃が安い。お客さんも自分も楽しめるアットホームな雰囲気のお店をつくりたい。学びの時だった。
12年ぶりの女川生活、再開。
就業期間を経て、やることはすべてやりきったと感じた。東京での暮らしを卒業する時が来た。女川へ戻る、と決めた。
帰る、と決めてからの一ヶ月は勉強に充てることにした。山梨、逗子、埼玉のそれぞれ規模の異なるマイクロブルワリーに通い、徹底的に研究した。設備、資材、酵母の使い方、樽の洗い方、仕込みのタイミング。女川でブルーパブをやるには、なにがベストなのか。試行錯誤する中、完成図が徐々に見えてきた。2013年の9月、12年ぶりの女川生活が再開した。
ビールを女川で作りたい。その一心で町へ戻ったものの、そう簡単に実現するものでもない。優佑さんが最後に女川に住んでいたのは高校生のころ。まずは、人脈作りからだった。町の人と交流するには、まずは仕事をみつけること。町内に就職先を探すことにした。
震災後数ヶ月して、関東圏に住む女川出身者が交流する「女川の会」というグループが立ち上がった。「女川に住んでいたころは、出会ったこともない人たちばかり。親同士の仲がよかったので、連絡があったんです。」町内の「復幸まちづくり合同会社」に就職が決まったものの、誰がメンバーかもわからない状態。そんな時、「女川の会」で培った関係に救われた。紹介された人が、合同会社のメンバーの一人だったのだ。すぐに職場にも馴染み、ウェブデザイナーとして女川の物産を販売するための通販サイトの立ち上げに携わることとなった。
女川唯一のビールパブ、ガル屋beer、誕生。
ここで、またしても転機が訪れる。女川で働き始めて半年たったころ、助成金の話が優佑さんの元にやってきた。それを使って念願のブルーパブを作る、と決まってからは、猛スピードでコトは進んでいった。二ヶ月後には、「きぼうのかね商店街」に開店。ガル屋beer、がOPENした。
町内からも町外からも人が集い、交わる賑やかな場所に成長した。去年の3月には、並行して続けていた会社の業務も辞め、4月に独立し、オーナーとなった。12月の「まちびらき2015冬」のタイミングで、シーパルピアに移転、新装開店した。
どんなときでも、なんとかなる。なんとかするしか、ない。
目下の目標は、ガル屋でビールを作るための免許を取ることだ。宮城県には、現在4つのマイクロブルワリーがある。優佑さんは、その5つ目に名乗りを上げたことになる。実現すれば、宮城県で最小規模のブルーパブ誕生だ。
1歳2ヶ月の息子さんのお父さんでもある優佑さん。父になったことで、もっと前向きに生きていけるようになった、と話す。どんな困難が立ちはだかっても、思わぬことが起きても、なんとかなる、と信じてきた。実際に、常に自らの手でなんとかしてきた。
「町の人に一番近いバーを作りたい。アットホームな場所にしたい。この想いは、ずっと変わってないんです。」優佑さんの想いは、ブレることを知らない。
女川こぼればなし。 ガル屋オリジナルのビールを作るべく、優佑さんは日々奮闘している。完成目標は、今年6月。夏の始まりに乾杯できたら、どんな素敵だろう。将来的には、アパレルの制作を再開し、ビアxアパレルのお店にしたいのだそう。オリジナリティ溢れる刺激的な店舗になること間違いなし。