二代目船長の、二度目の船出。

二代目船長に就任してから二度目の「我歴STOCK」を主催する植木船長。今年2016年は、去年までとは違う意気込みを感じる。これまでのターゲットは、子どもからお年寄りまでと、幅広い世代に楽しんでもらえるよう設定していた。今年からは、自分たちと同じ若い世代へとシフト。我歴STOCKは、次のフェーズへの進化を遂げようとしている。

駅前にぎわい拠点が完成してからというもの、週末になると女川は賑わいを増す。多くの観光客が、ぞろぞろと電車やバスから降りてくる。ただ、と植木さんは言う。「お客さんのほとんどが、中高年の方々なんです。女川にあまり来る機会の無い若者を呼ぶにはどうしたらいいかと考え、今年の我歴STOCKは、ターゲットを若者に絞ることにしました」。石巻の友だちにすら、女川に行くといえば、意を決して行くような小旅行だと冗談半分に言われてしまう。石巻に行くのは対して苦にならないと感じている女川町民の感じ方とは、かなり対照的だ。が、これも現実。入場無料の音楽イベントを開催すれば、石巻や仙台などの若者たちがお目当てのバンドを見に来たり、女川の変化を見たりするキッカケになるのではないか。そう植木さんたちは考えたのだ。

今年我歴STOCKは、まちなか交流館前で10時〜15時の開催となる。去年は2つのステージで10組のアーティストが登場。今年は、1つのステージに5組を集中させることにした。以前東京で活動していた女川出身のバンドだったりバンドメンバーが福幸丸メンバーの友人だったりと、女川色の強いバンドが揃った。時間も、短縮。その分出演者の時間に充てることで、より音楽をじっくり楽しんでもらいたい、という想いがあるからだ。出店は、毎年出店している町内外から集まった17店舗ほど。夜のみ営業している駅前商店街の店舗にも協力してもらい、昼の時間帯も営業してもらえることになった。イベントの終了時刻を早めにしたのも、夜の営業の妨げにならないように撤収するため。福幸丸船長の気配りが、こんなところにも現れている。

不安が無いわけではない。毎年恒例となっていた獅子舞や太鼓のパフォーマンスを楽しみに来てくれていた町の高齢者たちもいる。「クレームが来たらどうしよう、と町長に相談をしました。一回も若者向けのイベントをやったことがない。だからやったらいい、俺は行くよ、と。背中を押してくれました」と笑顔になった植木さん。全世代を網羅する町内のイベントは他にもある。若者で結成されている福幸丸の色、とはなんなのか。町における自分たちの役割をあらためて考えるチャンスと見ている。

こんな事情もある。獅子舞中心の別イベントの開催や、太鼓グループが演奏する他イベントの開催が既に決まっている。我歴STOCKという一つのイベントにすべてを集中させるよりも、バラしたほうがお客さんを女川に呼ぶことができるのではないか。おのおの働きながら活動をしているのも充分に分かっている。そんな彼らの負担を減らしたい。女川と女川の人びとを心から想うからこその決断だったのだ。町と寄り添い生きて行く福幸丸らしさが、見えてくる。

女川福幸丸、という起爆剤。

福幸丸としてやりたいことは、他にもある。町内の若者の後押しをしたいと考えている植木さん。しかし。役場の人たちからも我歴さんと、親しみを込めて呼ばれるようになりました、と言った後の植木さんの反応は意外なものだった。「福幸丸が若者代表のように言われるのは、イヤなんです。表立って活動しているのが私たちなだけであって、女川にはもっと若い人たちがたくさんいます」。福幸丸が開催するイベントや活動を目の当たりすることで、そんな彼らに気づいて欲しいことがあるそうだ。「イベントはやればできるんだ。大規模で無くてもいい。機材さえあればできるんだと思って欲しい。アイドルイベントやハードコアロックイベントがあればいいのに思っている人もいる。やってください、ではなく、やってしまえばいい。自分たちが呼んできてやる、くらいの勇気を与えたいんです」。

そういう植木さんも、以前は「こんなイベントやって欲しい」とお願いする方だったが、震災が彼女を変えた。自ら動くようになったのだ。やればできると信じることができた仲間同士で始めた福幸丸。我歴STOCKを毎年続けることで、同世代を勇気づけ、刺激したい。下の世代にも、チャレンジする精神を伝えたい。生の音楽に触れることで、自分たちも何かやろうと思ってくれるかもしれない。音楽だけではない。留学したいと思えば、海外へ行こう。起業したいと思えば、始めてみよう。若い世代を奮い立たせることこそが、女川をさらに面白くしていくのではと植木さんは思っている。

「あと5−6年して復興が完了したとき、女川はスタートラインに立ちます。その時に中心になって動くのは、私たちと少し上の世代。女川で面白いことをやろうと動く風土になっていればいいなと」。そんな女川を見て、故郷に戻ってイベントを開催する人もいるかもしれない。かつての高校生バンドのように、やりたくてうずうずしている女川の若者たちを、表舞台に引っ張る役でありたい。ムリに福幸丸に入ってもらう必要はない。やりたいことがあれば、協力関係を築いて一緒に取り組めばいい、そう感じている。

二代目船長の覚悟と福幸丸。

「先輩方が立ち上げてくれた福幸丸を引き継いだ立場として、二代目の自分がしっかりしなければという想いが強いです。前のほうがよかった、とは言われないように」。植木さんの目は、真剣だ。船長に就任してからはすべてが勉強です、と話す。船長になるまでは関わらなかった町の人との交流も始まった。まるで、自己紹介をし直す感じだったそうだ。

二年の今年は船長としての余裕も出てきたことで、我歴STOCKがどこを目指すべきか、福幸丸の役割はどうあるべきか、考えられるようになったと話す。
現在のメンバーは、25人。殆どが女川在住だが、一部仙台や石巻在住のメンバーもいる。「はたからみると、一瞬中に入っていけないほどの仲の良さかもしれません。小中学校が一緒だった友だちもいますし、兄弟同士のメンバーもいます。週に何度も呑みに行くような仲なんです」。どんだけ仲いいんだか、と笑う植木さん。熱い想いを共有してくれる新しい仲間は、いつでも大歓迎。来るもの拒まずの精神こそ、福幸丸。メンバーになると、忙しくなるのは確か。でも、仲間で企画したイベントやプロジェクトのあとの達成感は、たまらない。

町内にいるメンバーが主に動き、仕事が忙しくてなかなか手伝えないメンバーには、イベント当日でもできることをアサインする。そうすることで、バランスを維持している。なによりも船長として心がけているのは、情報共有を怠らないこと。それでも、時には忘れてしまうこともあるという。「メンバーに助けられ、支えてもらっています。上の世代も気にかけてくれ、アドバイスをくれたり、手伝ってくれたりします」。去年までは、遠慮からヘルプを頼むことができず、どんどん一人で抱え込んでしまった。結果、イライラしてしまったり大切なことが抜け落ちたりと良い方向へはいかず、初代船長と先輩メンバーに、このままではダメだと諭されたという。真面目な植木さんらしいエピソードだ。

本職では、介護職に就いている植木さん。福幸丸に関わるようになって得たものは多いと話す。福幸丸のメンバーになって以来、ステージの進行からアーティストの誘致まで、普通の社会人ではなかなか経験しない現場を体験。そして、町のイベントに参加する側ではなく、福幸丸として受け入れる側に回るようになった。震災前は、見に行く程度だった、ただ傍観していたようなイベントに、まさか自分が関わることになるとは。「今では、ああそろそろあのイベントの季節だな、とそわそわするようになりました。イベント主催者に、今年も福幸丸さんお願いしますと言われることが、なによりも嬉しいんです」。植木さんの笑顔は、幸福そのものだった。

我歴STOCK HISTORY。

初開催は、震災のあった2011年10月30日。「我歴STOCK in onagawa ~福興編~」として開催。以降、毎年夏に「音楽の力で女川を元気にしたい」という想いのもと、イベントを続けてきた。

2011年「復興編」以降、2012年「奮闘編」、2013年「出航編」、2014年「冒険編」、2015「新時代編」として開催。「町民の人たちを元気にしたい。町民の人たちを巻き込みたい。その気持が通じて、去年は地元のバーのマスターや、高校生バンドがステージに上がってくれましたし、町長のサプライズ出演もありました。地域の人たちの音楽活動の発表の場として、自信に繋がる場になればいいな、と思っていました」。我歴STOCKで初めて演奏した高校生バンドは、以後他の町内のイベントに呼ばれるようになったんですよ、と誇らしげに話す植木さん。女川町の人たちが大好きだ、という気持ちが、言葉の端々から溢れてくる。今年の「共鳴編」は6度目の我歴STOCKとなる。

イベント名の由来にも、福幸丸の想いを感じることができる。2011年の震災時の津波によって、町は瓦礫で溢れかえった。大切な想い出が詰まった家や町はただの瓦礫じゃない。自分たちの歴史なのだという想いを込め、「我歴(がれき)」とした。そして、60年代アメリカにおいて伝説となった野外ロックフェスティバル「ウッドストック」にあやかり、「STOCK(すとっく)」を拝借。「さらに、新たな我らの歴史をこれからストック(積み重ねる)していこうという希望も託して」(我歴STOCKホームページ<http://www.onagawa-fkm.com/>より引用)このネーミングに決めた。こうして「我歴STOCK」が誕生したのだ。

福幸丸のこだわり。

ブルーのストライプのツナギがトレードマークの福幸丸。町のイベントには、必ずお揃いのツナギで登場する。すぐわかる、と言われるその出で立ちは、町内の他の団体とは一線を画している。かっこよくありたい、と植木さん。こだわっている、という背中のプリントは、よく見るとぷっくりとふわふわしている。自分たちだけにわかる、小さな、でも大事なこだわり。そこは、若者らしさということで。そう言って、植木さんは笑った。

「我歴STOCKを継続するため、石巻のライブハウスなどで有料のライブの開催も視野に入れています。そのチケットの売上と、町のイベントへの出店で得たお金を活動資金に回したい。初回からこだわってきた無料イベントのアピールを貫きたい」。そこは尖っていたい、と言い切る。無料にした背景には、やはり若者への想いがある。チケット代を気にせず女川に訪れ、代わりにお金を町内で使ってくれたら。なにかとお金がかかりがちな若いファミリーも、気兼ねなく音楽イベントに来ることができたら。2016年我歴STOCK〜共鳴編は、植木さんが掲げるミッションが、一段とクリアに響く年になるのではないだろうか。

10回目を集大成として考えている我歴STOCK。その後は、オリンピックのように4年おきの開催でもいいかも、と笑う。8年の復興計画が終わる頃は、開催8年目。「女川は自己実現ができる町、なんでもできる町として知られるようになっていればと思います。インターンやお試し移住者も増えるのではないかと」。福幸丸として、交流人口を増やすための施策に関わっていきたいと植木船長は考えている。

こだわって尖りながらも、町内からの応援の気持ちに応えたい、と話す植木さん。協賛金を出してくれる多くの人からのがんばれ!の気持ちがありがたい。大切に使います、という気持ちを忘れたことはない。今年の我歴STOCK
開催まで、あと3週間。どんな共鳴が生まれるのか。若者が女川に押し寄せるシーンを想像してみた。うん、だいじょうぶ。植木船長率いるいまの福幸丸にできないなど、無い。

女川こぼればなし

我歴STOCKのグッズを扱っている商店街のショップ「MARUSAN」まで、植木さんとお散歩。撮影中に、めんこいね〜とからかっていた店長の目は、優しく暖かかった。そんな愛され船長が、ちょっぴりうらやましくなった。