受賞トロフィーという、女川とのご縁。

3年前の冬のこと。日韓合作で製作した映画が賞を受賞した。授賞式でトロフィーを受け取り、興奮冷めやらぬまま、監督をはじめ益田さんら撮影チームで打ち上げを開催。大盛り上がりしている最中、同じ居酒屋の隣のテーブルで盛り上がっている男性グループがいた。「すぐ隣に、同じようにトロフィーを囲んで乾杯していたんですよ。驚きました。」益田さんがそういうのも無理は無い。なかなか日常的に遭遇する光景ではない。飲んでいるうちに、テーブル同士で交流が始まった。

隣のテーブルが囲んでいたのは、カタールの基金によって女川町に建設された冷蔵・冷凍施設が受賞したグッドデザイン賞のトロフィーだった。建設会社のメンバー、区議、支援ネットワークなどのメンバーが共に受賞のよろこびを分かち合っていた。8割近くの建造物が流されてしまった自分の町で、再びサンマ水揚げ日本一を目指したい。水産加工業の社長は、そう力強く宣言した。益田さんと共に熱心に聞いていた監督も、いたく感銘し、動かされた。「ちょうど、次の題材を探していたときだったんです」と益田さん。「その場で決まりました。この映画を作ろう、と。」初対面同士とは思えぬ、熱い盛り上がり。女川の映画を作る。ストーリーが、見えた。

決まってからが、大変だった映画づくり。

映画をつくろう、と決めた背景にはこんな大前提があった。町側で撮りためている資料があるに違い無い。それに加え、被災当時の映像を寄せ集め、新たに撮影した映像と合わせたら、ドキュメンタリーができるのではないか。そんなに甘くはなかったですね、と益田さんは言う。女川の現実は、こうだった。建設会社は、建造物を建てるのに必死で記録の撮影どころではない。町の人びとも、日々の復興に一生懸命で、きっちりと撮影する余裕などない。肝心のカタールの映像も、もちろん皆無。ありものを集めるのは諦めて、最初から撮ることにした。

女川を特集するテレビ番組は、数多くある。そんな中、この映画は時間をかけて丁寧に撮っていきたいという想いがあった。「一番大切なのは、冷凍・冷蔵倉庫ができてから、町がどう復興していくか。どう町が変化していくか、その過程を追いたい」と、監督が決断しました。当初設定した撮影期間は一年。納得できず、もう一年撮影を延長した。2015年3月の女川駅の完成まで引いていたタイムラインを、プロムナードが完成する12月まで引き直した。撮影は12月に完了し、音声は翌月2016年の1月に一旦録り終わった。引き続き撮りたい、という想いを抱きつつ、残りは未来の夢へと繋げることにした。

つながるカタールと女川。

なぜカタールが女川を支援したか、映画を見ればわかりますよ、そう言って、益田さんはニッコリ笑った。カタールと女川。中東の一国家vs.東北の港町。一見すると、接点は薄い。この謎について、少し語ってもらうことにした。今では飛ぶ鳥を落とす勢いのカタールも、ガスと石油が出るまでは、漁業を基幹産業としていた。震災後設立されたカタールの被災地支援基金がサポート先として女川を選んだのも、強い共感からだった。カタールも女川も半島にあり、地形的にも似ている。誕生から発展の歴史も似ている。「まるで独立国のようなエネルギー、そして若さと知恵者のバランス。そこが刺さったんだと思います」と益田さんは言う。

では、女川にとって、なぜカタールなのか。基金を受け、冷凍・冷蔵倉庫が完成した。被災後にふたたび立ち上がり、徐々に事業を再開、商品の生産を開始。恩返しとして、カタールの人に食べてもらいたい。そして、カタールを起点として、海外へ市場を展開していきたい。そう考えている。イスラム教を信仰しているカタールの人びとは、アルコールが入っているものは食べることができない。ハラル認証にのっとった製法で、女川の味をカタールの人に届けたい。その想いが形になる日も近いようだ。

撮影チームや、女川を代表するメンバーとカタールへ渡ったのは四回。映画製作するにあたっての挨拶、撮影が確定してから撮影が始まるまでの交渉、そして時期を空けて二度にわたり撮影した。その中で、見えてきたことがある。カタール人の持つ、日本人に対する印象だ。

オナガワのフィッシャーマンは、theサムライ。「あの日 生かされた 俺たちは 熱い」の想い。

近年では、カタールに様々な日本人が訪れるようになった。観光客もいるが、特にビジネスマンや政治家と接することが多いという。大概が数名でやってきて、本人は殆ど言葉を発すること無く通訳を介する対話法を取る。会話といえば、サンキューと握手の挨拶程度。当然のことながら、受け入れるカタールの人びと(この場合、王族)は、自分の言葉で話して欲しいと思うそうだ。英語が話せなくても、アクションや声のトーンで伝えられることはある。語彙よりも、大切なのは伝えたいという気持ちだ。「女川を代表して行ったお二人からは、生身の人間を感じた。言葉の壁を越え、伝えようとする強いエネルギーを感じ、やっとサムライ精神を持った日本人に出会えたと思ったそうです。」ニッポン人代表、女川のサムライたち。熱くカタールの人びとの心を揺らした光景が、目に浮かぶ。

カタールの基金によって女川が復活のきっかけを掴んだことは、カタール国民の間ではもとより、王族の間でもあまり知られていない。女川のみならず、震災後の東日本がどう耐え、立ち上がり、復興に向かって夢を持って進んでいく姿は残念ながらあまり世界に発信されていない。視聴者にとって、この映画が初めて見る「JAPAN」かもしれない。 益田さんは言う。「戦争に負けた日本が、焼け野原から経済大国へと成長していった、その姿に似ているんです。世界へ、日本を、女川を発信する。それに欠かせないのが、字幕です。短い文章で、女川の熱意を端的に伝えていかなければと。」アラビア語、ネパール語と英語に翻訳されることが決まり、現在製作中だ。

女川を、活気づける。女川へ行く人を、増やす、動員する。

「サンマとカタール」を通じて、女川の人びとに伝えたいことがある、と益田さんは言う。「映画という映像の力を感じてもらいたい。電波や様々な手段で、世界へ発信できるんです。」女川の工場を維持していくには、商品が売れなければいけない、プロムナードににぎわいを生むには、お客様に来てもらわなければならない、そこに貢献できるのではないかと益田さんは感じている。映画公開前には、一斉にプロモーションがスタートすることになっている。女川へ向かう路線の各駅やスポンサー企業の店舗には、ポスターが貼りだされる。公開時には、女川の物産展も企画し、現在支援者を募集しているクラウドファンディングでは、支援者には映画のチケットと女川の物産が届くことになっている。

女川を活気づけるために、現地に行く人を増やす、女川と人びとを繋いでいく、動員する。映画「サンマとカタール」の製作チームは、この映画がその動きを生み出すきっかけになればと期待を込める。テレビ番組等では、一部にしかあたっていないスポットライト。女川の本音をこの映画で表現したいという益田さんの熱意が、こちらにも伝わってくる。ずっとこの映画を女川で上映してもらえれば、映画に登場する場所を巡るツアーなども企画できるわ、決めたやるわと言って、益田さんは微笑んだ。一発の打ち上げ花火だけで終わらない永続的な繋がりが、益田さんの目にはくっきり見えている。

ドキュメンタリー映画「サンマとカタール〜女川つながる人々」女川町先行特別試写会(初号試写)は、2月21日(日)女川町まちなか交流館ホールにて開催。5月7日、全国公開予定。
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女川こぼればなし。 カタールの王子から言われていることがある。ぜひ女川とカタールを舞台にした劇映画を作って欲しい、と。王子のご先祖だった部族の話を映像化したいのだそうだ。一体そこにどうやって、海の向こうの女川が絡んでくるのか。壮大なスペクタクルを妄想するだけで、ふわふわワクワクするのである。

2016.02.08 Text : YUKA ANNEN Photo : HIROMICHI MATONO