町長と共有した「美しい海のある町」というビジョン。

立役者は誰なのか。どんなふうに「新しい女川」の骨格はできていったのか。まちづくりに関わっている一人、小野寺康都市設計事務所代表取締役社長の都市設計家、小野寺康さんにお話を伺うことになった。駅前広場からプロムナード(歩行者専用道路)、さらには海辺の観光交流エリアまでのシンボル空間、と呼ばれるエリアを担当している。

町から連絡があったのは、2012年6月。須田町長のビジョンは明確だった。描いたイメージは、福岡県北九州市の門司港。小野寺さんが手がけた案件だ。一度衰退してしまい疲弊していた歴史的な港町を再生。アインシュタイン博士も泊まったという文化財の洋館も港近くに移築された。「可能性を秘めた町の立て直しのプロセス、そして地形の雰囲気の類似性、どちらを取ってみても、女川が震災復興を計画するにあたり、町長が門司港をイメージした意味が僕の中で腑に落ちた」と小野寺さんは言う。
山が市街地の背後に広がる門司港。太陽をやや背にしながら、海を臨む。だから、海はいつでも綺麗に見える。美しい海がランドスケープの一部になり、コンパクトに繋がっている町。小野寺さんの中で、「海」をテーマに女川の立て直しを図るという構図がくっきりと浮かび上がった。そして、門司港は西洋文化が混じっていることもあり、あかぬけた雰囲気を持つ町。当時女川に「スペインを想い出す」と発言する住民もいたという。そんな、湾を持ち、どことなくあかぬけたところがある町、女川。目指す画が、見えた。

さぁここからスタートだと意気込んだものの、思いの外連絡は一旦途絶えた。もう関わることはないかと小野寺さんが思い始めた最中、再び連絡があった。半年後の2012年12月のことだった。都市計画決定はしたが、町の骨格が町長の思い描いた通りになっていないとのことで、変更の議論をするために集められたチームの一人が小野寺さんだった。町長も参加し、ビジョンのまま、ラフスケッチをその場ですることにした。その場で放たれる言葉を即座に画に落としていくのが小野寺流なのだ。
「ご覧になりますか?」と小野寺さん。その時のラフスケッチを我々取材班に見せてくれることになった。写真を見ながら、とつとつと、イメージが生まれたプロセスを話してくれた。震災後初めて女川に訪れたのは、2011年10月。町のいたるところは沈下し、造成の目印になるフラッグが町中に立っていた。魚市場は、なんとか補強して使っている状況。その時小野寺さんが見た女川湾は、門司港を彷彿とさせたのだという。後に共有することになる須田町長のビジョンと合致したことに、運命的なものすら感じてしまう。話を聞いていて、そう思わずにはいられなかった。
小野寺さんを含むまちづくりのプロフェッショナルが集まったメンバーで、イメージする画を描き始めた。その時に描いた画を見せてもらった。今既に完成している町の骨格と、ほぼ変わっていない。駅があり、駅前広場、プロムナード、観光交流エリア、テナント型商店街。唯一変わったこと言えば、駅から海へ伸びる道。当初の計画では、国道の下に歩行者用のトンネルを設けていた。「数々の協議を重ね、女川町民のみなさんの努力により、道の地上連結を勝ち取ったんです。」そう言った小野寺さんの顔は、どこか誇らしげだった。

真っ直ぐに、海に向かって伸びていく道。ただの道ではない、シンボリックな道。ここから、町を立て直す。町に生きる人たちに希望を持たせたい。
そんな須田町長の決意の現れだった。

「とにかく、海。海があれば復興できる」

視覚的にビジョンを形に落としていくプロセスが始まった。小野寺さんの設計事務所では、通常は地味な色の模型に仕上げるのだそう。今回の女川の模型には、元気になるようなカラーをあえて選んだ。二列に並んだ並木は、一種類ではなく、色々な木が混ざるようにした。よく見る街路樹のようにバシッと揃えないことで、公園のように自然な風景を小野寺さんはビジョンしたのだ。
街路樹の横には、テナント型商店街が広がっている。この商店街のランドスケープ・アーキテクトが選んだのは、どこへ持ってきても違和感のない雰囲気の和風のモダン建築。店舗の前に設けられたデッキは、プロムナードにはみ出してきてほしい、と小野寺さんは言う。「どんどん来てくれ、食ってくれ、と言ってます。だって、屋内でおしゃれに飲み食いするよりも、屋外のデッキでさんまをつつく。これが、女川らしさかなと思うんですよね。」なるほど、納得だ。海を見ながら儲けよう、みんなで稼ごうじゃないかという構図だそうだ。町中に貼ってある「わたしたちは 海と 生きる」と書いてあるポスターの宣言通りだ、と気づいた。

女川町が掲げる目標のひとつに、交流人口を増やす、ということがある。いかに人を巻き込んで、交じり合いのキッカケを作っていくか。集まったり、食事をしたり、休憩するために、人びとが集まってくる。そんな心地よい場所が実現できれば、まちびらきはインパクトのあるものとして、人びとの目に映る、とそう小野寺さんは思ったそうだ。実際に昨年12月23日の「おながわ復興まちびらき2015冬」で目にした光景は、小野寺さんの言葉通りだった。駅から海へ伸びる真っ直ぐな道から、そしてプロムナードに繋がる脇の道から、ぞろぞろと人びとが集まってきていた。まさに老若男女世代性別を問わず、町の外からも中からも集い、交流が生まれていた。
民間と公共のエリアを分けない、というのも小野寺さんが出した答えの一つだった。民間で作ったのか、公共で作ったのか境界線がわからない。そんなことを気にせず、利用者には自由に使ってもらいたい。そんな空間は、日本ではあまり無い風景ではないかと、小野寺さんは言う。レンガみちのプロムナードを進み、海へ向かって歩いていくと、観光交流エリアが広がる。それが今後の計画だ。海の近くに行けば行くほど盛り上がっていく町、女川。そんな完成図が見えている。

通常の2倍、3倍。超高速のまちづくり。

「おながわ復興まちびらき2015冬」の日、小野寺さんはスタッフ総出で女川へ向かった。シーパルピア女川という(テナント型商店街)の完成は、第二ステップの完了を意味する。この日を迎えたことはもちろん喜ばしいけれど、すべてが完成しないと責務を果たしたとは言えません、と言う小野寺さんの顔が引き締まった。通常まちづくりは十年単位で進められるものだという。女川はその2倍、3倍のスピードの「超高速でやっている感じ」。2015年を振り返り、3月、8月、11月の写真を見ながら振り返ると、感覚的に信じられない気さえする。
3月の「おながわ復興まちびらき2015春」の光景。新しく出来た女川駅に到着して、感動にひたる前に飛び込んできた光景だった。完成したばかりのフューチャーセンターCamassに向かって行くと、バタバタと子どもたちが、走り回っていた。ウッドデッキに靴音を響かせながら。ああ、こんなに小さな子どもたちがいたんだ、やっと走り回ることができる場所ができたんだと感動したのを覚えている。
セレモニーで町長が言った言葉は、小野寺さんを始め、聞いた人の胸に刺さっている。「みなさん、絶賛造成中です。まだ3割です」。駅前が完成して綺麗になったのだけを見て復興したと思わないで下さい、ここからなんです、と力強く言っていた町長の姿が蘇る。外に発信される女川のニュースは、兎角明るいものが多い。でも光が強いとその分闇も濃くなる、と小野寺さんがつぶやいた。女川も例外ではない。目に見えるものだけを人は信じがちだ。発信していく上でのスタンス、についてあらためて考えた瞬間だった。

デザインという手段で、結果をつくっていく。

デザイナーとしての小野寺さんの哲学とはなんですか、と聞いてみた。しばらく考えた後に、返ってきた答えはこうだった。いつもデザインでなにができるかを考えること。デザインには、形を作ることで世の中や状況を変えるチカラがある。女川は、駅前エリアとプロムナードが完成して、以前よりも海が近く見えるようになった。海からは、駅が近く見える。二つをぐっと引き寄せたのが、デザイン。そこへ人びとの生活の流れを作るのも、デザインなのだ。

失敗できないまちづくり。新しい町に生まれ変わるストーリー。絶対に復興しなければならないというミッションを成し遂げる、それをデザインでやるのだという雰囲気が女川にはある。デザイナーとしての意義を強く感じ、この仕事を受けた。
「あいつバカだね、やりすぎだね、と言われたいんだよね。」笑いながら小野寺さんが言った。デザイナー業界で、頭がいいね、は決して褒め言葉ではないのだそうだ。一緒に笑いながら、バカ仲間に少しでも入れてもらえたらいいなと感じた、そんな爽やかな笑顔だった。

女川こぼればなし。
合言葉は「居酒屋で再会!」。そう約束して事務所を後にした。私にとっては初訪問。まちびらきの夜に行くと、大盛り上がりしていた。乾杯した後は、公開中のスター・ウォーズの映画の話に。私が話せば話すほど、マニアっぷりがバレて、小野寺さんに大笑いされた。君おもしろいねぇ変態だねぇと言われながら。普通なら出会えない人、気軽に話せないような人たちとグッと近づけてくれる町、女川。これこそが、最大にして最強の魅力かもしれない。