女川の「顔」が、ひとつ完成。
やっとここまできた、という感覚だと敬幸さんは言う。今だから話せるが、オープン前日の時点でランドスケープの外構工事も終わってないところや、店舗の内装作っているところもあった。職人さんたちが徹夜で終わらせたに違いない。すべての店舗が「おながわ復興まちびらき2015冬」までにオープンとはいかなかったものの、一致団結し、この日を迎えることができた。みんなのおかげだ、みんなのおかげだ、と敬幸さんは何度も繰り返した。
まちなか交流館にテナントさんを集めて、決起会をした。建物は完成した。でも、あくまでも主役は「人」だ。いい演技をしないとお客さんはこない、と敬幸さんは伝えたという。全員が、うなずいていたそうだ。
女川町がスローガンとしてかかげる「START! ONAGAWA」の第一歩。「あたらしいスタートが世界一生まれる町へ。」そんな町を目指していく。気持ちが高揚しているスタートから、永遠にいい「演技」をし続けることで、じわじわと交流人口は増えていく。
ひとつひとつ新しい物ができていく、それが今の女川にとっては良いことだそうだ。町外から訪れた人が、いま見える景色の様々な感想を伝えてきた。この町はいいね、半年前の6月に訪れた時にはなにもなかったのに、まるで代官山に来たみたい。気分が高揚するコメントばかりだった。2016年秋には物産センター(仮称)も完成する。そして、海辺に観光交流エリアが完成すれば、また違った女川が見えてくるはずだ。
インタビュー当日は、記念すべき夜を控えていた。震災後初めて、プロムナードから見える花火が上がる。当初雨だった予報も、みんなの熱意が通じてどこかへ行ってしまったね、と敬幸さんは笑った。さすが、女川パワー。
女川みらい創造が描く「女川のみらい」。
2014年6月に「女川みらい創造株式会社」は設立された。年明けに採択される予定だった津波浸水地域での施設新設に対する補助金の民間受け入れ先となり、シーパルピア女川をはじめとするテナントのリーシングとマネージメント業務を行っている。2014年12月に被災地で一番早く「まちなか再生計画」を完成させた女川。その町の観光協会会長、そしてご自身の仕事の業務もある中、敬幸さんは「みらい創造」の代表を引き受けた。町の若手経営者や町長からの、たっての願いだった。
町に必要なことを事業化し、クリエイティブに解決していきたいと敬幸さんは言う。現在はリーシングとマネージメントを行っているが、ゆくゆくは女川町の水産業に貢献できるスペシャリストをスタッフとして入れたいと考えている。スポーツ事業のノウハウを活かしたり、プロムナードのイベントを企画したり、交流人口を増やす旅行業やマリーナ経営など、町と連携しながら進めていきたいと語る。
現在の駅前エリアがすべて完成するのは、2020年。プロムナードで飲食をして、温泉に入ってあたたまって、そのまま歩いて宿へ帰る。そんなビジョンをも敬幸さんは持っている。現在は早い時間帯にタクシーに乗れないことも多い女川。安心して楽しく飲食する人の流れを増やすためにも、新しい代行サービスなども視野に入れているようだ。住宅街はすべて高台にできる。安心して自分の車で来て、帰って行けるようにしたい。これがあったほうがいいということを、事業にしていきたい。そう力強く語る敬幸さんの言葉に、そう遠くない将来に確実に実現する日がやってくる、そう実感した。
外から見た女川を知っているからこそ描けるビジョン。
すっかり女川ウィルスに感染したな、と嬉しそうな敬幸さん(だれも鈴木さん、と呼ばないことが分かってきたころ)に言われるようになったのは、去年2015年の夏頃だったと思う。女川が好きになってしまうことを、「女川ウィルス」と言うことを知ったのもこの頃だった。町で見かければ声をかけてもらえるようになり、浜に連れて行ってもらったり、夜明けまで飲み明かしたり、マグロ漁船での伝説について聞かされたり、敬幸さんの豪快なエピソードの数々に、すっかり魅了されてしまった。今日はどんな話が聞けるのかしらと、会う度にワクワクした。
敬幸さんの生い立ちについて聞いた。石巻の高校を卒業し、東京の大学へ進学。貿易会社に就職し、物流のノウハウを身につけた。担当した業務のインポート先は、スペインだった。取引していた会社は、タコやモンゴウイカの買い付けに、カナリア諸島へ船を出していた。入社して2年後に、その取引先の会社からヘッドハンティングされ、新設された日本支社に勤務することになった。東京で出会った宮城県出身の奥様との結婚とを機に女川へ戻り、父親が始めたマグロ漁船の会社を継いだ。
船で巡るホノルル、マーシャル諸島、ペルー。インドネシア、モーリシャス、ケープタウン。敬幸さんの口から、世界中の国や町の名前がキラキラと出てくる。外国に行ったからこそ、日本のことがよく分かる。友達も世界中にできた。そして、外から女川を見ることができた。だから今がある、と敬幸さんは言う。その時の経験が、未来の女川のビジョンを描くときに不可欠だったのだ。
「俺は残るから、お前も残れ」の覚悟。
現在、マグロ船は3隻。でも、女川で一本も水揚げしたことはないんだよと言う敬幸さんの言葉に、思わず、えっ?と返してしまった。不勉強ながら、不思議な気さえした。女川には、マイナス60℃の冷凍倉庫がない。受け入れる術がないのだ。敬幸さんの船は、年間1000トンのマグロを水揚げするが、殆どが静岡の清水港へ行く。ドックとして整備や仕込みをするのは、気仙沼港。
極端なことを言うと、通信さえできれば、どこでも仕事ができるということになる。女川にいる必要は無い。それでも本社は、女川にこだわった。震災後の女川から出ることは考えられなかった。いなきゃいけないと思って、ココにいる、そう敬幸さんは言い切った。若いやつらに残れと言っておいて、自分がいなくなるなんてできなかった、と。
今でも年に4回ほどは海外出張へ行く。船が入るところは観光地でもない、都会でもない、ローカルな港町が多いそうだ。そんな町は、女川とかぶる。世界地図無いの、と探しだす敬幸さん。紙の地図が無いと分かると、タブレットをすいすいと操作して、世界中の港町を案内してくれた。聞いたことのない地名が溢れるように出てくる。だんだん、英語が混じってくる。エアポート。キャピタル。アイランドホッパー。ネイヴィー(間違ってもネイビー、ではない)。
鮮やかな光景を、目の前の敬幸さんの言葉が紡いでいく。マーシャル諸島にあるサンゴ礁の島。全部プライベートビーチ、鰯の群れに鳥山が立つ、ここでしか見れない光景。100m間隔で交番があるモーリシャスの町。シネマ、レストラン、ホテルのあるウォーターフロント。リマの海上レストランもいい。バイオリンの生演奏付き。ビーチに椅子とテーブルを置いて、ランタンの灯りで飛行機の発着を見ながら、ディナー。それぞれの町の素敵を持ち帰り、女川らしく再構成したい。敬幸さんは、至って本気だ。疑う者も、いない。
世界中の仲間を巻き込むパワー。
震災後、女川の避難所に水と物資を最初に運んできてくれたのは米軍の第7艦隊所属の空母ロナルド・レーガンだったという。自衛隊よりも早かったそうだ。津波が押し寄せた次の日には、空母からヘリが飛んできた。その時の感謝を形にして返したい。そう思い、女川の蒲鉾とサンマを持って、ハワイへ飛んだ。日本領事館のガーデンで、サンマを焼いたそうだ。そのイベントを喜んだ第7艦隊のメンバーが、今度は去年2015年の5月に女川へやってきた。10人で神輿を担いだそうだ。もちろん、彼らにとってみても人生初の体験だったそうだ。来年は20人で来るんだって、と敬幸さんは笑った。こうして、「女川ウィルス」感染者が日本のみならず、世界中に増えていくのだ。
現在は、水産庁の水産政策審議会の委員や、日本かつお・まぐろ漁業協同組合 代表監事の他、複数の職を掛け持ちしている。多い時月に4回、週一のペースで上京しているらしい。その上で、まちづくりと、観光協会も兼務。どう考えても睡眠が足りないはずなのだが、いつ会っても底なしに元気なのだ。エネルギーの源はなんなのかと思っていたところに、こんなエピソードを教えてくれた。
某役者兼シンガーがバンドを引き連れて来てくれた。女川を舞台にしたドラマに出演したご縁で、今でも女川と繋がっている。寝ずに呑んで疲れているのも役作りと言い放つほどの酒豪が、敬幸さんと呑んでいて、先に帰ると言い出したらしい。「やった、俺勝った!と思ったね」敬幸さん、ここでも勝利。
そのパワーにやや圧倒されつつも、しばらく会わないとそのパワーを分けてもらいたいという気にさせる人、鈴木敬幸さん。一度捕まったら、ぎゅっと握った手を放したくなるのは、実はこちらの方なのかもしれない。
女川こぼればなし。
でかい世界地図プレゼントするか!と敬幸さん。
インタビューをしたフューチャーセンターの壁には、ロンドン時間も、ニューヨークもあるのに、なんで世界地図が無いんだと。確かに。
しかし、一同固まる。どこへ貼るんだろう。あの壁かしら、あっちかしらと思いを巡らす。次に訪れる時の楽しみが、またひとつ増えた。
2016.01.08 Text : YUKA ANNEN Photo : KEISUKE HIRAI